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高良川縁起 その15

『道でもあった筑後川』

文/高良川 ほとり

寒さもぐっとゆるみ、桜の時期を迎えております。浅井の一本桜、うきは市の流川の桜並木もいいですよねえ。

さて、筑後川は「川」であると同時にまた「道」でもありました。玖珠や遠くは津江から切り出した木を筏に組んで流しておりました。その始まりは江戸時代の天和年間といいますから、三百五十年ほど前。山から切り出した材木を、馬で引いたり一本づつ川に流したりして日田でいったん集約します。親方ごとにある「浜」と呼ばれる集積場で、カズラを使い長さ二間、幅一間ほどの筏に組み、これを注文に応じて筑後川河口域の大川や佐賀の材木商まで届けたそう。

日田から浮羽の荒瀬までが「中乗り」、そこから筑後川河口までが「下行き」と大きく分かれます。水量も少なく浅瀬も多い「中乗り」は難しく、一枚の筏を二人がかりで下っていくこともあったんだとか。対して「下行き」は水流が穏やかになりますので、筏を四組セットにして一人で下っていきます。久留米から下流の感潮域にはいりますと潮の満ち引きを読みながら下っていくので、筏をあやつる棹の長さも違い、また潮にあわせて夜中に暗闇の中を下っていったりと、中乗りとはまた違った難しさがあったようです。

また、川の水量や天候が一定なわけではありません。ので、中乗り一日、下行き二日というのが大まかな目安ではありますが、状況に応じて泊まりながら下っていきました。川沿いには船宿、筏宿がありまして、いまでも地名に「恵蘇宿」などと残っております。

川が運んでいくのは材木だけではありません。鉄道ができるまでは、ちょっとした荷物があるときには荒瀬まで馬で運び、そこから船で大川まで送ったそうです。九重の硫黄なども軍需品として下っていったことでしょう。

夜明ダムの完成とともに終えた筏流しの歴史。いまでは道路が発達して大川から日田まで二時間ほどのご時世ですが、当時はもっとゆったりとした時間が流れていたのでしょうか。

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いかだ流し(大川)

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