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久留米文学散歩 vol.112

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二十六回
頼りにされた田兵殿 文/江﨑久美子

吉政は、慶長三(一五九八)年三月十七日、京都醍醐寺三宝院裏の山麓で秀吉が行った花見に参加しました。秀頼、北政所、淀殿らの近親者、諸大名とその妻、その配下など一三〇〇名を従え総勢五〇〇〇人の盛大に催した宴、秀吉の最後の豪遊といわれた程です。桜の馬場から槍山に続く三百五十間(約六三七m)の左右に植えられた七〇〇本の桜の木は、山城国や近江国の各地から集められ、予定日から三日間雨が降り、秀吉は僧侶に、「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と言い放ったそうです。吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じ、翌日には晴れ渡った空の下花見は開催されました。当日、槍山には、殿舎、庭園、茶屋が並び、茶会、歌会が行われ、記録では、吉政は、北政所の御輿奉行で、護衛の指揮をしたと思います。

また、天正十六(一五八六)年に、秀吉の母大政所は、徳川家康が大阪へ出向かなかったことで岡崎城に人質として行くことになりました。徳川家臣本田作左衛門が、寝所の周りに芝を積み囲み、「家康に何かあったらただでは置かぬぞ」という気配を見せ、吉政は警護のために同行して、寝ずの番で心細い大政所を安心させました。

そして、秀吉と秀次の右筆を務めた駒井重勝の日記「駒井日記」文禄四(一五九五)年四月十九日には、秀吉は、甥で秀長の養子となった秀保の死を落胆して、傷心で有馬へ湯治に行き、その時も吉政は同行したとあります。四日後に、秀吉の元へ来ていた僧侶を本圀寺に送り、秀吉から「六条御番」を仰せつかりました。本圀寺は六条にあったということですから、僧侶を京都六条の本圀寺に送り葬儀諸々取り決める御役を任せられたということです。

やはり、吉政は、秀吉とその家族と密接な重臣でした。時として、北政所や大政所は、「田兵殿」と呼んで、身内のように頼っていたのだと思います。

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