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久留米文学散歩 vol.109

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二十三回

田中吉政肖像画 文/江﨑久美子

前回、秀吉の肖像画をテーマに書きましたが、同年に、吉政の肖像画も描かれました。東京大学史料編纂所でデータを検索出来ます。明治四十三年八月に模写されたもので、依頼主は田中左門、吉政の甥で養子となった主馬の子孫とされています。

その原画の詳細は不明ですが、データの紹介には、慶長巳寅となっています。慶長には巳寅はないので、崩し字を検証してみると、寅と見えて、本当は亥で巳亥、つまり慶長四(一五九九)年、秀吉が亡くなった次の年、関ケ原の戦の前の年になります。賛も秀吉の肖像画と同じ南下玄興、その文章は、「…賛田中氏 兵部卿の肖像 慶長巳亥 四月吉辰…」です。兵部大輔だった吉政が、兵部卿と書かれています。兵部卿は、官位で兵部大輔の上の位で、主に公家や、天皇家の身内が受ける上官位です。左門さんが「うちの偉いご先祖のじい様」の意味で〇〇翁のように卿を付けた事は否定できませんが、官位が正式にちゃんと存在するので違うかなと思います。

天正十六(一五八八)年三月、吉政が兵部大輔を受勲した時も、宮廷の女官達の日記、「お湯殿の上の日記」に、たなかの名前の記載があるので、慶長四年の四月前後の項を調べたら、慶長四年三月八日の項に、たなかの文字がありました。

「はるはる、しゆこうよりかちん(餅)一ふたまいる。せんはう寺しやむしよく申いるる。ひろはしひろう申さるる。たなかも申入候につきて。したにてよくせんき申され候へのよしおほせいたさるる」とありました。

石清水八幡宮の田中氏も時折出てくるので断定はできませんが、この時、秀吉が兵部卿を吉政に与える事を勧め、一旦、兵部卿を受勲、お祝いの予定で肖像画を描かせた。そして、関ケ原の戦があり、徳川の時代が始まり、筑後守として兵部卿は取り下げられたとしたらどうでしょう。まだ、歴史の舞台に上がっていない物語が眠っているのかもしれません。

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