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久留米文学散歩 vol.107

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二十一回

台所入掟という指図書 文/江﨑久美子

吉政は、筑後国入封後、三奉行及び横目奉行の六人に向けて江戸から五五ヶ条からなる「台所入掟」を出し領内支配の徹底をはかります。

その頃の台所とは、要となる部署を言い、本城の柳川城築造や、慶長本土居工事、そして幹線道の整備などを指図しました。

それは、

一、やな川のいしかき、あのうは善介、橋本亀右衛門両人に申し付け候事、

一、くるめは、そかの理右衛門、橋本源兵衛、此の両人に相懸かり候事、

一、やな川のてんしゆのたい、吉日次第、石かきつミ候様に人持へ差し急がるべき事、

などと見え、城普請は、柳川の天守ほか、櫓や門の普請、作事は家臣それぞれが分担して工事を進めるようになっていました。特に天守閣の普請は、日の出から日没まで費やし、かなりの突貫工事で進められました。工事の内容も改修といった形のものではなく、新規の普請であったと考えられます。技術面で石垣普請を指揮したのが「あのう」、つまり穴太衆で、柳川城と久留米城は、同時期に並行していました。穴太衆は、豊臣秀吉の時代から、駿河穴太衆と参河穴太衆を秀吉が、出雲穴太衆を豊臣秀次が抱えており、吉政は、その一派を引き継いだものと思われます。

また、「台所入掟」の別の項では、

一、やな川よりくるめまでの新道の両わきのミぞ、よこ四尺にほらせ、その土は道の上、中高にをき、入念作り候様に、その郡代より奉行を相つけられ申し付けられるべく候事、

これにより、本城柳川と最も重要な久留米城との間に、新たな「幹線」道路を整備していることがわかります。

吉政が、中央から当時の最先端の土木技術を筑後国にもたらしたと言っても過言ではないでしょう。それまでの吉政の経験は、秀吉の側近で関白秀次の筆頭家老として、穴太衆という一級の土木集団を配下に持ち、多くの土木整備を行って来た経験から、その総結集を筑後国で発揮したのです。

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