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久留米文学散歩 vol.106

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二十回

田中吉政が考えついた逆水攻めの城 文/江﨑久美子

吉政は、関ケ原の合戦後の一六〇一年、九州平定で入城した立花氏の旧柳川城を大々的に拡張して五重の天守閣を築き居城としました。柳川は、掘割の廻る城下町です。

「柳川城を攻め落とすには三年かかるが、熊本城は三ヶ月、佐賀城、久留米城は朝飯前」というじゃれ歌を、昔歌ったそうです。柳川城は、それほど二方を海で囲まれ、二方は周りに幾重にも掘割を廻らし天然の要塞を持つ堅城でした。また、城に敵が攻めて来ると柳川城の外堀の水門を閉じて、川番人が矢部川の堰を高くして、水の多くが柳川に流れ込む沖端川に流し、城の外堀の外回りを洪水にして敵の攻撃を防ぎました。攻める側が水浸しになって、戦わずして戦は終わるという訳です。

吉政は、城池を新しく掘ってこれまでの城に接して、その西側に本丸を築き、石垣を高く積み重ねて壮大な五層の八つ棟造の天守閣を建て、沖ノ端川があまりに接近していて要害を欠くとして西方に掘り替えました。網の目のような掘割に満々と水をたたえる水郷で、城の城郭が翼を広げた鶴を連想させたので舞鶴城とも呼ばれました。名実ともに難攻不落の水城、名城柳川城と讃えられるようになったのは吉政の時からのことだと思います。城の遺構は、少ししか残っていませんが、むしろ柳川の街全体がお城の遺構なのかもしれません。

もし、攻められるようなことがあっても、攻めた方が水浸しで戦意を失うなどと、誰が考えるでしょう。それまで何年も、戦国時代を戦い生き抜き、戦を見てきた武将の一人ですが、この柳川城を考えると、戦わない城を考えつくなど、心から平和を願われたのではないかと思います。城の周りの掘割は、一時期は、近代化で淀んだ時代もあったそうですが、有志の方々の手でまた息づくことができました。そこを行き交う船の船頭さんが、流暢な説明で観光客を楽しませています。

ーつづくー

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