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久留米文学散歩 vol.104

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十八回

田中吉次の行方 その二 文/江﨑久美子

今回は、吉次の江戸入りの時期を検証します。田中吉政が一六〇九年二月に亡くなり、岡部長盛堤台城の廃城取り払いがその年の八月ですから、それより前だと思います。、椿姫の化粧料が宛がわれ、忠政が御所参内、隼人正の官位を受けたのが慶長十(一六〇五)年です。忠政が徳川家からの椿姫輿入れに伴い嫡男の決定後に、吉次は、杉浦陣屋入りしたかもしれません。家康家臣の、伊奈忠次は関東郡代として、土木工事を担っていました。伊奈忠次と同じく家康家臣で赤沼の杉浦定政の正室深津氏は姉妹で親戚の間柄です。

徳川家康が、豊臣秀吉によって関東に移封され、関ケ原の戦を乗り越え、引き続きまさに江戸城下を作っていた最中で、利根川を東側へ移動して流し込む工事を続けていました。伊奈忠次は一六一〇年に亡くなります。二五歳の伊奈忠政の補佐の為、その前から遠国奉行に入ったのかもしれません。

実際徳川家直轄地に住んでいたのですから、流浪したわけではない事もわかります。まして、その頃は、吉次は、関宿城主の椿姫の兄の松平忠良とは、義理の兄弟で、亡くなった父の康元は家康と兄弟です。つまり、家康は吉次からすると義伯父さんという近さです。

吉次達は、すでに正室も子供もいたので必然と忠政が娶ることとなり、徳川家との親戚として忠政が筑後国を継ぐしかありませんでした。後の一六一五年に一国一城の令が成されれば、結局それぞれの息子たちはどこかの領地を貰い移り住むしかありません。

関ケ原の戦では、、家康の嫡男秀忠との直接のやり取りの書状が残っていますし、信頼のおける間柄でした。そう考えると、筑後国主にならなかったとしても、それなりの役職を賜ったはずだと考えます。吉次の官位は民部大輔ですが、殆ど少輔とされるのは、後に書かれた田中興廃記から引き出した誤伝でしょうか。吉次の夜明けは近いです。

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