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久留米文学散歩 vol.103

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十七回

田中吉次の行方 文/江﨑久美子

長男吉次は、「寛政重修諸家譜」など、どれも多くは語られていません。戒名は、機翁宗活。元和三年(一六一七)年七月二十三日没、民部大輔、京都南祥寺で閑居とあります。

実は先日、千葉県の野田市市役所生涯学習課から問い合わせがありました。その内容は、野田市堤台にある市文化財の絵馬のある「子育て延命地蔵尊」を守っておられる田中氏が、田中吉政の子孫だと言われ、その後、私や中村文平さんの田中吉政の本をネット注文して頂いた方が、「その地蔵尊は妻の里なので、調べるために買いました」とメッセージを頂きました。そして、千葉県野田市図書館にある資料のコピーを送って来られました。それを見て、私たち一同歓声を上げたのです。まさに、不明だった吉次の消息だったのです。

それによると、吉次は現在の埼玉県松伏町の赤沼に移り、そこから松伏町田中、そして現在の千葉県野田市に辿り着きます。

一六〇九年当時、岡部長盛が、丹波亀山城へ移封となり、廃城となった堤台城の取り払いのお役を預かり、そのまま城内に定住、二年後に亡くなったとのことです。

つまり、吉次は、父との折り合いが悪く閑居したわけではなかったのです。何故なら、そこは、徳川家の天領地。筑後国を継いだ忠政の正室椿姫の父から跡を継いだ兄が治める関宿藩内。岡部長盛の正室も家康生母お大の方の養女、徳川家親戚筋の集まる地域なのです。当時、伊奈氏による利根川を東へ移す開削工事、新田開発の土木の担い手が必要とされた時期です。

また、伊奈氏が後に改易となりその屋敷跡の管理を任され、今も多くの文書を所蔵する家が、田中姓で、今も子孫の方が地元に居られます。野田市の郷土史家は、双方の田中家とは親族関係にあるとのご意見をお持ちの方もおられ、全く分からなかった吉次の消息の手がかりが掴めてほっとしています。次号はこの続きを書きますね。

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