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久留米文学散歩 vol.101

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十五回

おあむ物語 文/江﨑久美子

石田三成の家臣、山田去暦の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦の様子を語った話を筆録して正徳年間に成立させた「おあむ物語」があります。

父山田去暦は、石田三成の配下として大垣城に家族を連れて籠城します。おあむは、徳川家康方から石火矢を討ち込まれる中、母や城内の女性たちと城の天守で鉄砲玉を作り、見方が討ち取った敵将の首に札を付けて並べ置きました。後の恩賞のために位の高い武将に見せようと、おはぐろを付ける作業をしていました。気になる所の文章を拾ってみます。

「毎夜御前0時頃に、誰かわからないが、男女三十人ほどの声で、『田中兵部どの、田中兵部どのぅー』と泣き声がしていました。うとましく恐ろしいことでした」

それをおあむは、訳が分からず幽霊かもしれないと恐れました。

「その後家康様よりの攻撃軍が大勢城へ向かい、戦が夜昼続きました。その寄せ手の大将は、田中兵部殿という人でした。大砲を撃つときは、城の周囲に触れ回っていました。それはどうしてかというと、大砲を撃てば、櫓もゆるゆると動き、地も裂けるかと思うほど、すさましいものでした」

吉政達の軍は攻撃するのに、事前に知らせたというのです。それが本当なら、吉政の心の内が見えるようです。そして、落城という日に、吉政の命で、父親は矢文を受け取ります。

「北の堀脇より梯子をかけ、釣り縄を使って下へ釣り下げました。そのうちたらいに乗って堀を渡りました」

この物語は、吉政は大垣城へは行っていないので、これは佐和山城という説と、佐和山城は、山城で堀が無いので大垣城だという説。大垣城だとすれば、逆に行っていないという証拠もありませんから、三成が捕えられ、吉政が「井口陣所へお連れ申せ」と言い、その足で馬を飛ばせば往復出来る距離なので、救出後に、家康の許へと三成を連れて行ったのかもしれませんね。

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