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久留米文学散歩 vol.100

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十四回

吉政の鉄腕マネージャーな仕事ぶり 文/江﨑久美子

吉政は、秀吉の時代から、沢山の城の造営に深く関りを持ってきました。大河ドラマ「麒麟が来る」が話題となりましたが、信長が亡くなり、山崎の合戦で、明智光秀は破れ、いよいよ豊臣秀吉の天下となりました。その後の吉政を考えてみましょう。清須会議の後、清州城に豊臣秀次が入ると決まると、吉政が先に清州城に入り体裁を整えたと、少ない記録の中に出てきます。

二年後の四月、蒲生氏郷が、伊勢松ヶ島城に移封した後を、二十三才の若い奉行衆の長束正家を伴い、吉政は日野城に入りました。そして、日野城の体裁を整えたと思ったつかの間の十月、かつて明智光秀がいた丹波福知山城主、秀吉正室ねねのおじにあたる杉原氏が亡くなり、急ぎ城代として入ります。一五九五年、秀次が高野山で切腹した年、小野木重勝が城主になるまでの九年の間は吉政の管轄城下でした。

また、その少し前、一五八五年に近江八幡城は、関白秀次の居城となり、筆頭家老として吉政が築城します。しかも、近江八幡城の縄張りと、石田三成の佐和山城の縄張りは、そっくりで、彦根市の学芸員さんは、吉政の仕事だろうとのことです。

次の年の一五八六年には、聚楽第の建設が始まります。勿論、聚楽第は秀次の居城としての采配も、吉政ら家臣団の屋敷建設も、忙しかったに違いありません。

それから、戦乱の時代が続きますが、一五九〇年に、秀吉は吉政を、三河国岡崎城の城主にします。この城の築城と、城から離れていた東海道を城下に引き入れ、大規模な工事を行います。

ざっと書いただけで、どうですか? 目まぐるしく、秀吉の直下で、各地を見守り整え、次の城に移っていく、今で言うなら支店を支店長に任せるまでに整え造り上げるマネージャーのような働きぶりです。筑後国に入ってきた時は、経験を積んで満を持してといった具合ではなかったでしょうか。

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