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久留米文学散歩 vol.98

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十二回

吉政公のご命日 文/江﨑久美子

吉政は、慶長十四(一六〇九)年二月十八日、江戸に向かう途中、山城国伏見において病気で亡くなりました。遺骸は、京都黒谷金戒光明寺に葬られました。

生前の金戒光明寺への偉業を讃え、法然上人の号の円光院を頂き、法名は崇厳院道越円光院とされました。葬儀は、仲の良かった宮城家の、当時隣接していた菩提寺旧永運院の手を借りて、その南方の塔頭の龍光院が葬儀を執り行い、西翁院を菩提寺として、現在も位牌が置かれています。龍光院を菩提寺と書かれている本もありますが、当時の事情を知る史料がありませんが、西翁院のご住職が、明治の頃までは、田中吉政養子主馬子孫の田中左門氏がお参りに来られていたと言われていましたので、菩提寺としては間違いないでしょう。墓石は、金戒光明寺の御影堂向かって左にひときわ大きな大宝篋院塔(だいほうきょういんとう)形式墓石で、公家や位の高い方の墓所だと聞いています。

それから、その宮城家では、吉次の孫政信が家老を勤めた時期もあったようです。同じ近江出身で、田中家とは、用が無くても会って交流があったと手紙等から読み取れると、宮城家研究者は語ります。

突然の吉政の死に、皆、それは悲しんだことでしょう。筑後国から遠い国での訃報に、親族は誰が立ち会ったのでしょうか。京都から筑後国まで船で、小倉に柳川から家老と、柳川の西方寺が遺骨を迎えに行っています。

後に、吉政の遺言で、柳川城外の藤吉村の田畑の中央に墓が設けられ、この墓所の上に城内より真教寺(後の真勝寺)を移して、菩提寺としました。位牌には、「前筑後州太守従四位下桐厳道越大居士神儀」、裏に「慶長十六年歳次辛亥二月十八日」とあります。なぜ、十六年なのか、亡くなって二年後に、寺の建設が終わったとの意味なのか、誤伝なのかは不明です。吉政公が亡くなり四一二年になります。

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