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久留米文学散歩 夏目漱石編(5)

文/増原 達也

bungaku201305.jpg「追分」に下りて、右に道を採るのですが、歩いたとしても現在では一時間半もあれば発心の入口に着きます。そこから公園までは、歩いて十五分程で「公園」です。現在の公園は漱石が寄った当時と同じであるとは限りませんが、現在でも「桜」の木は多く存ります。そして漱石作の俳句を彫った「石碑」もあります。只、漱石の手紙で「発心公園」に触れた文字は十三文字しか存りません。それが、

‥発心と申す処の桜を見物致候‥

これだけで、後は子規に送る軸の事、友人山川を五高に招聘した事、そして虚子(高浜)の北堂(母・本名柳)の具合が余りよくない事が書かれ、この人物は翌年十一月に死亡されています。この文章には、すでに「猫」「坊ちゃん」を思わさせる文脈があるようです。

それ迄小生、長い年月を行き詰まっていたのですが、「ふと」した事で「小林一郎」氏の「夏目漱石の研究」と云う本を入手することが出来ました。それは二十年程も以前の事です。

その前版の写真版に「二松学友會誌」第三輯が掲載され、全員で百名内外の名簿になっています。この中に、

福岡県御井町冨多村 飯田春畦

と云うのが存り、彼は漱石の同級生です。当時の漱石の名と住所は、

東京都下谷区西町四番地

塩原金之助

となっています。(明治十四年入学)

塩原家は夏目家(名主)の番頭であった人物で、その家に彼は養子に出され二十歳になって戸籍を可成り高価な金額で買い戻しています。そして飯田家を訪ねて「家系図」を閲覧させて頂き、春畦氏の存在を確認、その長男が一(はじめ)氏で、この方は千葉医専の一期生で帰郷後は同地で昭和二十七年まで医院をされており、跡継ぎが居ない為廃業、今日に至っているようです。漱石は発心後、彼を訪ねたと思われるのですが、両者共に書き遺したものはありません。

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