Home > 久留米文学散歩

久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.102

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十六回

久留米城主田中吉信公ご命日に寄せて 文/江﨑久美子

今年も、六月二十九日、推定三十一才でお亡くなりになった田中吉政次男主膳正吉信のご命日がやってきます。

吉信公の事は、謎に包まれていて、残されたお話が、あまり良い印象がない物ばかりなので、真実を調べたいと日頃から思っています。久留米城主となり病気で亡くなられた後、柳川城下の宗安寺に葬られました。多くの家臣が、あとを追って殉死したと聞きます。また、吉信公の乳母が尼となり、その命が尽きるまで境内に建てたお堂で菩提を弔い続けました。

そして筑後国終焉から十年後、吉信の家臣で、北野天満宮脇寺林松院前住持貞俊と大庄屋秋山藤右衛門が話し合い、その遺骨を柳川から北野に移して、荒廃に帰していた林松院に一宇の堂を再建し西方寺と称して、浄土宗に属し善導寺の末寺となり、顕誉良波上人を以て開山としました。法名は、「陽壽院殿龍岳道雲大居士」です。

「山鹿語類」や、「田中興廃記」は、吉信公が乱暴者で狂気の人物で十六歳位で亡くなったように書いていますが、関ヶ原の戦で長い刀を使い勇敢に戦った逸話があり、単純に勇敢を面白く、狂気の人物として書いたのでしょう。「氷輪の如く」(中村文平著文芸社)が出版され、小説として書き下ろされてはいますが、調べた上で導き出された人物像、久留米の地を愛した純粋な人柄として綴られています。久留米城主として吉政の元、筑後川長門石の河川開削、柳川までの往還田中道は、力を尽くされたことでしょう。

長い間、慶長十一(一六〇六)年と寛政重修家譜等に書かれてきましたが、西方寺様寺内の大きな自然石の墓石に、はっきりと慶長十五(一六一〇)年没と刻まれています。石に刻まれた歴史こそが、真実を浮かび上がらせたのです。西方寺にある、久留米城主の田中吉信公のお墓に、どうぞお参りされて、ご住職の暖かいお話を聞いてみませんか?

久留米文学散歩 vol.101

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十五回

おあむ物語 文/江﨑久美子

石田三成の家臣、山田去暦の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦の様子を語った話を筆録して正徳年間に成立させた「おあむ物語」があります。

父山田去暦は、石田三成の配下として大垣城に家族を連れて籠城します。おあむは、徳川家康方から石火矢を討ち込まれる中、母や城内の女性たちと城の天守で鉄砲玉を作り、見方が討ち取った敵将の首に札を付けて並べ置きました。後の恩賞のために位の高い武将に見せようと、おはぐろを付ける作業をしていました。気になる所の文章を拾ってみます。

「毎夜御前0時頃に、誰かわからないが、男女三十人ほどの声で、『田中兵部どの、田中兵部どのぅー』と泣き声がしていました。うとましく恐ろしいことでした」

それをおあむは、訳が分からず幽霊かもしれないと恐れました。

「その後家康様よりの攻撃軍が大勢城へ向かい、戦が夜昼続きました。その寄せ手の大将は、田中兵部殿という人でした。大砲を撃つときは、城の周囲に触れ回っていました。それはどうしてかというと、大砲を撃てば、櫓もゆるゆると動き、地も裂けるかと思うほど、すさましいものでした」

吉政達の軍は攻撃するのに、事前に知らせたというのです。それが本当なら、吉政の心の内が見えるようです。そして、落城という日に、吉政の命で、父親は矢文を受け取ります。

「北の堀脇より梯子をかけ、釣り縄を使って下へ釣り下げました。そのうちたらいに乗って堀を渡りました」

この物語は、吉政は大垣城へは行っていないので、これは佐和山城という説と、佐和山城は、山城で堀が無いので大垣城だという説。大垣城だとすれば、逆に行っていないという証拠もありませんから、三成が捕えられ、吉政が「井口陣所へお連れ申せ」と言い、その足で馬を飛ばせば往復出来る距離なので、救出後に、家康の許へと三成を連れて行ったのかもしれませんね。

久留米文学散歩 vol.100

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十四回

吉政の鉄腕マネージャーな仕事ぶり 文/江﨑久美子

吉政は、秀吉の時代から、沢山の城の造営に深く関りを持ってきました。大河ドラマ「麒麟が来る」が話題となりましたが、信長が亡くなり、山崎の合戦で、明智光秀は破れ、いよいよ豊臣秀吉の天下となりました。その後の吉政を考えてみましょう。清須会議の後、清州城に豊臣秀次が入ると決まると、吉政が先に清州城に入り体裁を整えたと、少ない記録の中に出てきます。

二年後の四月、蒲生氏郷が、伊勢松ヶ島城に移封した後を、二十三才の若い奉行衆の長束正家を伴い、吉政は日野城に入りました。そして、日野城の体裁を整えたと思ったつかの間の十月、かつて明智光秀がいた丹波福知山城主、秀吉正室ねねのおじにあたる杉原氏が亡くなり、急ぎ城代として入ります。一五九五年、秀次が高野山で切腹した年、小野木重勝が城主になるまでの九年の間は吉政の管轄城下でした。

また、その少し前、一五八五年に近江八幡城は、関白秀次の居城となり、筆頭家老として吉政が築城します。しかも、近江八幡城の縄張りと、石田三成の佐和山城の縄張りは、そっくりで、彦根市の学芸員さんは、吉政の仕事だろうとのことです。

次の年の一五八六年には、聚楽第の建設が始まります。勿論、聚楽第は秀次の居城としての采配も、吉政ら家臣団の屋敷建設も、忙しかったに違いありません。

それから、戦乱の時代が続きますが、一五九〇年に、秀吉は吉政を、三河国岡崎城の城主にします。この城の築城と、城から離れていた東海道を城下に引き入れ、大規模な工事を行います。

ざっと書いただけで、どうですか? 目まぐるしく、秀吉の直下で、各地を見守り整え、次の城に移っていく、今で言うなら支店を支店長に任せるまでに整え造り上げるマネージャーのような働きぶりです。筑後国に入ってきた時は、経験を積んで満を持してといった具合ではなかったでしょうか。

久留米文学散歩 vol.99

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十三回

田中家のお姫様達 文/江﨑久美子

三月は、お雛様祭りの季節。田中家の文書には、中々女性の名前は出てきませんが、その中で分かっている人物と言えば、吉政の母竹がいます。その他に名前は不明ですが、吉政の娘達の、宮廷書記官の大外記中原師廉の正室になった女性、田中家三奉行の宮川讃岐正室となった女性、同じく三奉行の磯野伯耆の息子大膳の正室になった女性、家臣草野熊之助正室、そして、忠政に嫁いできた久松院椿姫。

また、忠政の時代の田中家家臣知行割表には、筆頭に筑後守殿後家、妙寿院、慶福院、城島、北ムキ、朝妻、梅原、新庄、佐渡守後家と書かれています。宮川佐渡後家が娘だと分かりますが、それ以外は吉政との関係がよく分かりません。妙寿院は、後を継いだ忠政の母で、継室ではないかと言われています。柳川の寺にまつわる逸話に出てくる慶福院は、忠政の伯母、或いは吉政の叔母だとされます。吉政の叔母だとすると父重政の妹。或いは弟に嫁いできたか。忠政の伯母だとすると、吉政の姉で、誰かに嫁ぎ、または、吉政の兄に嫁ぎ後家となって筑後まで来たことになります。

吉政の故郷で、歴史を調べておられた湯次行孝住職の書かれた「国友鉄砲の歴史」には、「かの慶福門院が…」との一説があるのですが、この言葉が示すものは位の高さです。その伯母さんが、とっても位の高い方だった。しかし、「吉政の母慶福院」との文字もあり、謎は増すばかり。

近衛前久の姉で、一五二六年生まれの花屋玉栄という人が、同じ慶福院というらしいのです。もし、この人なら、吉政より年上で、田中家に嫁いだとなると、忠政の伯母で、吉政の兄に嫁いで後家となり筑後に居た事があった。もし、この人なら、秀吉に源氏物語を読み聞かせた話があり面白いですね。残った逸話などから紐解くには、まだまだ史料が足りませんが、益々、謎を解く楽しみが広がります。

久留米文学散歩 vol.98

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十二回

吉政公のご命日 文/江﨑久美子

吉政は、慶長十四(一六〇九)年二月十八日、江戸に向かう途中、山城国伏見において病気で亡くなりました。遺骸は、京都黒谷金戒光明寺に葬られました。

生前の金戒光明寺への偉業を讃え、法然上人の号の円光院を頂き、法名は崇厳院道越円光院とされました。葬儀は、仲の良かった宮城家の、当時隣接していた菩提寺旧永運院の手を借りて、その南方の塔頭の龍光院が葬儀を執り行い、西翁院を菩提寺として、現在も位牌が置かれています。龍光院を菩提寺と書かれている本もありますが、当時の事情を知る史料がありませんが、西翁院のご住職が、明治の頃までは、田中吉政養子主馬子孫の田中左門氏がお参りに来られていたと言われていましたので、菩提寺としては間違いないでしょう。墓石は、金戒光明寺の御影堂向かって左にひときわ大きな大宝篋院塔(だいほうきょういんとう)形式墓石で、公家や位の高い方の墓所だと聞いています。

それから、その宮城家では、吉次の孫政信が家老を勤めた時期もあったようです。同じ近江出身で、田中家とは、用が無くても会って交流があったと手紙等から読み取れると、宮城家研究者は語ります。

突然の吉政の死に、皆、それは悲しんだことでしょう。筑後国から遠い国での訃報に、親族は誰が立ち会ったのでしょうか。京都から筑後国まで船で、小倉に柳川から家老と、柳川の西方寺が遺骨を迎えに行っています。

後に、吉政の遺言で、柳川城外の藤吉村の田畑の中央に墓が設けられ、この墓所の上に城内より真教寺(後の真勝寺)を移して、菩提寺としました。位牌には、「前筑後州太守従四位下桐厳道越大居士神儀」、裏に「慶長十六年歳次辛亥二月十八日」とあります。なぜ、十六年なのか、亡くなって二年後に、寺の建設が終わったとの意味なのか、誤伝なのかは不明です。吉政公が亡くなり四一二年になります。

久留米文学散歩 vol.97

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十一回

田中道という名の街道 文/江﨑久美子

吉政は、筑後国入封後、柳川城と十支城の築城と、それを繋ぐ街道の整備をしました。

柳川城から福島城。福島城から黒木猫尾城。柳川城から黒木城。福島城から久留米城。久留米城から城島城、城島城から大川榎津城。榎津城から柳川城。柳川城から江浦城、中島城、松延城と、網の目のように繋ぎます。元々あった街道の整備と、新たに新道を作りました。

その柳川と久留米間の柳川新道を、古老は、田中道と呼びました。城下の出入りの箇所には、道の両側に堀を作り、防御対策を行いました。その新道の田中道は、百姓の次男三男を呼び寄せ、津福町、土甲呂町、下田町、金屋町、横溝町、大角町、田川町、山野町、目安町という町立てをしました。この町に住んだ者は、税金の一部が永代年貢免除となり、吉政没後に、土甲呂町や津福町の住人は、吉政を偲び「座」を作って「御免地祭り」を催しました。今でも、吉政を祀った小さな祠が、大木町横溝の(兵部社)・同町土甲呂(吉政社)・久留米市津福町(広建社)などあります。

また、以前からあった古道の「府中道」を久留米から少し離して柳川往還の田中道に繋ぎます。福島城から久留米城までは、広川町を抜け二軒茶屋から小頭町を目指します。福島城下には、久留米へ通じる意味の久留米橋という欄干があります。

そして、驚くことに、筑後国以外の隣の筑前国にも田中道と称される道が存在するのです。残念ながら、なぜ古老がそう呼ぶのかは特定できていないのですが、現在確認できる道は、大宰府インター近くから宇美町に至る乙金公民館あたりです。この田中道は、博多に通じる通常の街道とは違って、大野城市に入った後、井ノ口公民館の少し南を通り、そこからは江戸期に参勤などで使われた道を通り小倉の大里宿へ、そして港へ向かうのです。あなたも、近くの田中道を歩いてみませんか?

久留米文学散歩 vol.96

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十回
筑後国大運河計画 文/江﨑久美子

吉政の時代に開削したり、元々あった小さい川やため池を繋げて造られたとされる運河は、花宗川、山ノ井川、塩塚川、太田川、二ツ川、中ノ井川と、大昔からあったような自然な形で存在し、今も筑後国の田畑を潤しています。
吉政は、秀吉の命で、伏見の湿地帯を埋め立て整備して川や川湊を造り、伏見城周りの工事をする普請奉行たちを束ねる総監督職でした。三河国岡崎城下でも、災害で荒廃した矢作川の工事を監修しました。
運河を開鑿する他に井堰を整えたと言われる広川は、広川町から城島城まで流れ、城島城の堀の役目をしました。同じように、八女市にあった福島城には、中ノ井川と花宗川、柳川本城には、沖の端川と二ツ川、塩塚川が、堀の役目と堀割を満たすための水流となったのです。
そして、吉政公は、ついに満を持して筑後国で大運河計画を思いつくのです。
その計画は、巨瀬川が筑後川に流れ込むその場所から始まり、高良山の麓を回り込み、久留米、三潴を通り、今度は、沖端川から運河を引いていた塩塚川と結び、沖端川と交差する形で、塩塚川を大きく作り直し、有明海に注ぐという壮大なものでした。
それが完成すれば、有明海から大船が行き来して、筑後国の交通、流通は、すごい発展を遂げたでしょう。このことは、国土交通省のホームページにも紹介されている程です。
残念なことに、吉政公が亡くなることで、その計画は実現されませんでしたが、そのような計画があったことだけでもとても驚きますね。関ケ原の戦の功績で、家康からどこが良いかと尋ねられて、筑後国を選んだと言われていますが、吉政公には、この国を豊かにするぞという意気込みと、今までの経験から来る自信があったに違いありません。
その時の吉政公の目には、豊かな水に恵まれた、日本のベネチアと言えるような筑後国の風景が写っていたことでしょう。

久留米文学散歩 vol.95

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第九回

吉政が織田信長に影響を受けたわけ 文/江﨑久美子

田中吉政が「土木の神様」と呼ばれる程の土木技術を持っていたのは、織田信長、豊臣秀吉との関係が深く係わっていたからということを、どなたもご存じないかも知れません。今回は、その一つを少しだけ説明します。

吉政が元服した頃は、浅井長政の時代であり、長政は織田信長の妹お市を娶り、信長と同盟関係を築き、若くして北近江の国人領主として領国支配を完成しつつありました。

しかし、元亀元(一五七〇)年四月、長政は朝倉攻めの最中だった織田信長の背後を襲い、同盟を破り敵対関係になったのです。

近江の湖北地方の宮部、国友、石田らの地侍たちは地縁的繋がりにより浅井長政に従い、そのまま二か月後の六月には、よく知られる姉川の戦いに突入していくことになります。

「信長公記」の巻五には、次のようにあります。

「虎後(御)前山より宮部迄路次一段あし候、武者の出入りのため、道のひろさ三間々中に高々とつかせられ其へり敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ往還たやすき様に仰せつけらる」

虎御前山から宮部までの間が、一段と悪路だったので、兵の往来を助けるために道幅を約六・四mに広げ、浅井側に約五・五㎞に渡って道のへりに高さ約三mの築地を築かせて堀を掘って水を堰き入れ、砦からの行き来の便利を図ったのです。吉政は、その頃は、宮部継潤の配下で、田中家の小城は、そこから僅かに百メートル程東側にあったと長浜市文化財課は推定しています。周りには「内形」や「堀ノ北」「堀ノ東」「堀ノ前」等の地名が残っています。

しかも、お隣の国友村は、吉政の母方の里です。当時二十三歳の吉政は、宮部継潤の配下で、父や他の武将たちと共に体験した、まさに、郷里で行われた、一大事業であったに違いないのです。そして、吉政も、何かの役割を担ったかもしれませんね。

久留米文学散歩 vol.94

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第八回

立花誾千代姫の生涯 文/江﨑久美子

田中家と、入れ替わりで柳川城を領した立花家の誾千代姫は、永禄十二(一五六九)年、筑後国山本郡(現福岡県久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生しました。

道雪の五七歳にして初めて授かった子だったため、深く溺愛し、後継ぎとして育てました。誾千代姫は、七歳の時に、立花城の地督、城域、諸道具の一切を、大友宗麟、義統の安堵を受け譲られました。それで、女城主と呼ばれる所以です。

そして、同じ大友家の高橋紹運の息子、宗茂を婿とし、誾千代姫が、十八歳の頃立花姓を名乗りました。

宗茂は、十三万二千石で柳川城を拝領しますが、誾千代姫は、父の墓のある立花山から離れようとせず別居し、やっと柳川城に入ったのもつかの間、宗茂の心が自分にないことを知ると、柳川城の南方の宮永殿館に居を移したそうです。先日屋敷跡に行ってきましたが、お城からずいぶんと離れていて、宮永殿屋敷跡と書かれた石碑が建てられていました。

関ケ原の戦が起こり、西軍に与した宗茂は、徳川家康に下り、加藤清正の居る肥後高瀬に庇護されると、誾千代姫は同行せずに、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に母仁志姫と移り住みました。そして二年後の十月十七日に病でこの世を去ります。

久留米市善道寺にお墓があります。法名は、光照院殿泉誉良清大禅定尼です。

柳川郷土史会のお話では、仁志姫の亡くなられたのを機に、まだ柳川は田中領だったので、誾千代姫と仁志姫のお墓を、縁のある人たちによって肥後から善導寺へ移されたのではないか? とのことでした。

宗茂は、田中家改易で再封となり、柳川に誾千代姫の菩提寺寂性山良清寺を建立し、また、熊本のお墓のあった場所に、供養塔を作りました。その形がぼたもちのようなので、今も「ぼたもちさん」と呼ばれて親しまれていて、時折、誾千代姫を慕ってお参りされる方がおられるそうです。  |つづく|

久留米文学散歩 vol.93

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第七回

関ケ原の戦いと石田三成との別れ 文/江﨑久美子

関ケ原の戦直前、石田三成の命を帯びて加賀野井弥八重茂は、徳川家康暗殺を目的に関東に向かいました。そして浜松城主堀尾帯刀(徳川方)とばったり会い、加賀野井は、堀尾に伴われ池鯉鮒(ちりゅう)宿杉屋に赴き、刈谷城主水野忠重(徳川方)らと酒宴中水野を斬り、堀尾にも斬りかけたが逆に殺されてしまいます。

加賀野井の遺骸は宝蔵寺に粗末に葬られていましたが、それを知った吉政は墓石を建て丁重に弔いました。

関ケ原の戦直前、世間がピリピリとした時代、家康の目を伺うこともせず、堂々と旧友のお墓を建てるとは、情に厚く気持ちの大きい人だったのでしょうね。

そして、とうとう関ケ原の戦いが起こります。絵巻などの田中吉政陣は、誇らしくも、ほぼ一番前の中央です。吉政に付いての逸話では、関ケ原の合戦中の「合渡の戦い」で一番乗りの功績をあげました。

しかし、石田三成の捕縛での出来事こそは、彼の人柄を知る上でここに上げておかねばならないと思います。

三成は合戦後、逃亡の途中で生米を食べて体調を崩していました。三成が「一戦に利なく。無念血流断腸の思いじゃ。されど、太閤殿下への報恩と思えば、今は後悔などない。後は存分にされよ」と言うと、吉政が「数十万の軍兵を統べらしは、ゆゆしき事智謀の極みなれど、戦の勝敗は天命と申すもので御座る。我等人身の及ばざることで御座った」と言い、肩に自分の陣羽織を掛けてやりました。

三成は、吉政の好意に心を打たれ、秀吉から賜った貞宗を贈ります。その後、井口村(伊香郡高月町井口)の陣所に五日間とどめ、ニラ粥でもてなして、体調を整えた後家康の許へともなったそうです。

三成は、吉政より十二歳も年下で故郷も近い。せめて武士としての花道を飾ってやりたかったのでしょう。ちなみに、その貞宗は、現在東京都博物館に所蔵されています。

Home > 久留米文学散歩

Search
Feeds
Meta

Return to page top