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久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.105

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十九回

田中吉次の行方  その三 文/江﨑久美子

田中吉次の行方  その三 文/江﨑久美子  叡山松禅院文書という文書を研究された、稲本紀昭氏の論文紹介を見ていたら、その中に一通だけ各田中文書では見たことのない田中吉次書状がありました。それを見ると、

… 尚々、委細之儀ハ、唯心院様へ御尋可被成候、可相渡之由 被仰候間、銀子相渡申候、然共、御算用ハ未無之候、先度々、御用之砌、進上申候キ、来廿三日、大阪へ御越候段、御大儀と奉存候、拪御用儀候者、可被仰付候、尤 宗繁□御報可被申上候へ供、他行 被仕候条、拙子□ 如此候、恐惶敬白 十月廿日 田中五郎右吉次(花印) 横川別当代御房様尊報

年代が不明ですが、出てくる名前が、唯心院、田中五郎右衛門吉次、横川別当です。吉次の家系は家系図に五郎左衛門を名乗るので、ひょっとしたら左の書き写し違いではないかと思いますし、田中家文書にもそう名乗った文書が一通あります。

次は唯心院ですが、日野輝資(一五五五―一六二三)でしょう。権大納言だった彼は、一六〇七年に出家して唯心院を号します。江戸や駿府において家康、秀忠に仕え、側近の僧として以心崇伝や天海につぐ地位にあり、禁中並公家諸法度の編纂にも加わり、その正本は彼によるものと言われています。この頃の横川別当は、蒲生氏郷の息子の玄俊で、慶長十七(一六一二)年十二月十二日に亡くなりました。

吉次の没年は、元和三(一六一七)年なので、唯心院が名乗った一六〇七年から、玄俊が亡くなった慶長十七(一六一二)年の前までに書かれた文書になります。

その頃の田中家の環境はどうだったでしょう。慶長十四(一六〇九)年二月に、吉政が亡くなり忠政があとを継ぎ、八月には岡部長盛の堤台城の取り払いのお役を吉次が受けます。徳川家側近の唯心院と玄俊の間で取り交わした内容…。

やはり、吉次は、江戸で徳川家の親類と同じ扱いの身分で、江戸でお役を頂いていたとしか思えませんが、皆さんは、どう思われますか?           ーつづくー

久留米文学散歩 vol.104

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十八回

田中吉次の行方 その二 文/江﨑久美子

今回は、吉次の江戸入りの時期を検証します。田中吉政が一六〇九年二月に亡くなり、岡部長盛堤台城の廃城取り払いがその年の八月ですから、それより前だと思います。、椿姫の化粧料が宛がわれ、忠政が御所参内、隼人正の官位を受けたのが慶長十(一六〇五)年です。忠政が徳川家からの椿姫輿入れに伴い嫡男の決定後に、吉次は、杉浦陣屋入りしたかもしれません。家康家臣の、伊奈忠次は関東郡代として、土木工事を担っていました。伊奈忠次と同じく家康家臣で赤沼の杉浦定政の正室深津氏は姉妹で親戚の間柄です。

徳川家康が、豊臣秀吉によって関東に移封され、関ケ原の戦を乗り越え、引き続きまさに江戸城下を作っていた最中で、利根川を東側へ移動して流し込む工事を続けていました。伊奈忠次は一六一〇年に亡くなります。二五歳の伊奈忠政の補佐の為、その前から遠国奉行に入ったのかもしれません。

実際徳川家直轄地に住んでいたのですから、流浪したわけではない事もわかります。まして、その頃は、吉次は、関宿城主の椿姫の兄の松平忠良とは、義理の兄弟で、亡くなった父の康元は家康と兄弟です。つまり、家康は吉次からすると義伯父さんという近さです。

吉次達は、すでに正室も子供もいたので必然と忠政が娶ることとなり、徳川家との親戚として忠政が筑後国を継ぐしかありませんでした。後の一六一五年に一国一城の令が成されれば、結局それぞれの息子たちはどこかの領地を貰い移り住むしかありません。

関ケ原の戦では、、家康の嫡男秀忠との直接のやり取りの書状が残っていますし、信頼のおける間柄でした。そう考えると、筑後国主にならなかったとしても、それなりの役職を賜ったはずだと考えます。吉次の官位は民部大輔ですが、殆ど少輔とされるのは、後に書かれた田中興廃記から引き出した誤伝でしょうか。吉次の夜明けは近いです。

久留米文学散歩 vol.103

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十七回

田中吉次の行方 文/江﨑久美子

長男吉次は、「寛政重修諸家譜」など、どれも多くは語られていません。戒名は、機翁宗活。元和三年(一六一七)年七月二十三日没、民部大輔、京都南祥寺で閑居とあります。

実は先日、千葉県の野田市市役所生涯学習課から問い合わせがありました。その内容は、野田市堤台にある市文化財の絵馬のある「子育て延命地蔵尊」を守っておられる田中氏が、田中吉政の子孫だと言われ、その後、私や中村文平さんの田中吉政の本をネット注文して頂いた方が、「その地蔵尊は妻の里なので、調べるために買いました」とメッセージを頂きました。そして、千葉県野田市図書館にある資料のコピーを送って来られました。それを見て、私たち一同歓声を上げたのです。まさに、不明だった吉次の消息だったのです。

それによると、吉次は現在の埼玉県松伏町の赤沼に移り、そこから松伏町田中、そして現在の千葉県野田市に辿り着きます。

一六〇九年当時、岡部長盛が、丹波亀山城へ移封となり、廃城となった堤台城の取り払いのお役を預かり、そのまま城内に定住、二年後に亡くなったとのことです。

つまり、吉次は、父との折り合いが悪く閑居したわけではなかったのです。何故なら、そこは、徳川家の天領地。筑後国を継いだ忠政の正室椿姫の父から跡を継いだ兄が治める関宿藩内。岡部長盛の正室も家康生母お大の方の養女、徳川家親戚筋の集まる地域なのです。当時、伊奈氏による利根川を東へ移す開削工事、新田開発の土木の担い手が必要とされた時期です。

また、伊奈氏が後に改易となりその屋敷跡の管理を任され、今も多くの文書を所蔵する家が、田中姓で、今も子孫の方が地元に居られます。野田市の郷土史家は、双方の田中家とは親族関係にあるとのご意見をお持ちの方もおられ、全く分からなかった吉次の消息の手がかりが掴めてほっとしています。次号はこの続きを書きますね。

久留米文学散歩 vol.102

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十六回

久留米城主田中吉信公ご命日に寄せて 文/江﨑久美子

今年も、六月二十九日、推定三十一才でお亡くなりになった田中吉政次男主膳正吉信のご命日がやってきます。

吉信公の事は、謎に包まれていて、残されたお話が、あまり良い印象がない物ばかりなので、真実を調べたいと日頃から思っています。久留米城主となり病気で亡くなられた後、柳川城下の宗安寺に葬られました。多くの家臣が、あとを追って殉死したと聞きます。また、吉信公の乳母が尼となり、その命が尽きるまで境内に建てたお堂で菩提を弔い続けました。

そして筑後国終焉から十年後、吉信の家臣で、北野天満宮脇寺林松院前住持貞俊と大庄屋秋山藤右衛門が話し合い、その遺骨を柳川から北野に移して、荒廃に帰していた林松院に一宇の堂を再建し西方寺と称して、浄土宗に属し善導寺の末寺となり、顕誉良波上人を以て開山としました。法名は、「陽壽院殿龍岳道雲大居士」です。

「山鹿語類」や、「田中興廃記」は、吉信公が乱暴者で狂気の人物で十六歳位で亡くなったように書いていますが、関ヶ原の戦で長い刀を使い勇敢に戦った逸話があり、単純に勇敢を面白く、狂気の人物として書いたのでしょう。「氷輪の如く」(中村文平著文芸社)が出版され、小説として書き下ろされてはいますが、調べた上で導き出された人物像、久留米の地を愛した純粋な人柄として綴られています。久留米城主として吉政の元、筑後川長門石の河川開削、柳川までの往還田中道は、力を尽くされたことでしょう。

長い間、慶長十一(一六〇六)年と寛政重修家譜等に書かれてきましたが、西方寺様寺内の大きな自然石の墓石に、はっきりと慶長十五(一六一〇)年没と刻まれています。石に刻まれた歴史こそが、真実を浮かび上がらせたのです。西方寺にある、久留米城主の田中吉信公のお墓に、どうぞお参りされて、ご住職の暖かいお話を聞いてみませんか?

久留米文学散歩 vol.101

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十五回

おあむ物語 文/江﨑久美子

石田三成の家臣、山田去暦の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦の様子を語った話を筆録して正徳年間に成立させた「おあむ物語」があります。

父山田去暦は、石田三成の配下として大垣城に家族を連れて籠城します。おあむは、徳川家康方から石火矢を討ち込まれる中、母や城内の女性たちと城の天守で鉄砲玉を作り、見方が討ち取った敵将の首に札を付けて並べ置きました。後の恩賞のために位の高い武将に見せようと、おはぐろを付ける作業をしていました。気になる所の文章を拾ってみます。

「毎夜御前0時頃に、誰かわからないが、男女三十人ほどの声で、『田中兵部どの、田中兵部どのぅー』と泣き声がしていました。うとましく恐ろしいことでした」

それをおあむは、訳が分からず幽霊かもしれないと恐れました。

「その後家康様よりの攻撃軍が大勢城へ向かい、戦が夜昼続きました。その寄せ手の大将は、田中兵部殿という人でした。大砲を撃つときは、城の周囲に触れ回っていました。それはどうしてかというと、大砲を撃てば、櫓もゆるゆると動き、地も裂けるかと思うほど、すさましいものでした」

吉政達の軍は攻撃するのに、事前に知らせたというのです。それが本当なら、吉政の心の内が見えるようです。そして、落城という日に、吉政の命で、父親は矢文を受け取ります。

「北の堀脇より梯子をかけ、釣り縄を使って下へ釣り下げました。そのうちたらいに乗って堀を渡りました」

この物語は、吉政は大垣城へは行っていないので、これは佐和山城という説と、佐和山城は、山城で堀が無いので大垣城だという説。大垣城だとすれば、逆に行っていないという証拠もありませんから、三成が捕えられ、吉政が「井口陣所へお連れ申せ」と言い、その足で馬を飛ばせば往復出来る距離なので、救出後に、家康の許へと三成を連れて行ったのかもしれませんね。

久留米文学散歩 vol.100

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十四回

吉政の鉄腕マネージャーな仕事ぶり 文/江﨑久美子

吉政は、秀吉の時代から、沢山の城の造営に深く関りを持ってきました。大河ドラマ「麒麟が来る」が話題となりましたが、信長が亡くなり、山崎の合戦で、明智光秀は破れ、いよいよ豊臣秀吉の天下となりました。その後の吉政を考えてみましょう。清須会議の後、清州城に豊臣秀次が入ると決まると、吉政が先に清州城に入り体裁を整えたと、少ない記録の中に出てきます。

二年後の四月、蒲生氏郷が、伊勢松ヶ島城に移封した後を、二十三才の若い奉行衆の長束正家を伴い、吉政は日野城に入りました。そして、日野城の体裁を整えたと思ったつかの間の十月、かつて明智光秀がいた丹波福知山城主、秀吉正室ねねのおじにあたる杉原氏が亡くなり、急ぎ城代として入ります。一五九五年、秀次が高野山で切腹した年、小野木重勝が城主になるまでの九年の間は吉政の管轄城下でした。

また、その少し前、一五八五年に近江八幡城は、関白秀次の居城となり、筆頭家老として吉政が築城します。しかも、近江八幡城の縄張りと、石田三成の佐和山城の縄張りは、そっくりで、彦根市の学芸員さんは、吉政の仕事だろうとのことです。

次の年の一五八六年には、聚楽第の建設が始まります。勿論、聚楽第は秀次の居城としての采配も、吉政ら家臣団の屋敷建設も、忙しかったに違いありません。

それから、戦乱の時代が続きますが、一五九〇年に、秀吉は吉政を、三河国岡崎城の城主にします。この城の築城と、城から離れていた東海道を城下に引き入れ、大規模な工事を行います。

ざっと書いただけで、どうですか? 目まぐるしく、秀吉の直下で、各地を見守り整え、次の城に移っていく、今で言うなら支店を支店長に任せるまでに整え造り上げるマネージャーのような働きぶりです。筑後国に入ってきた時は、経験を積んで満を持してといった具合ではなかったでしょうか。

久留米文学散歩 vol.99

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十三回

田中家のお姫様達 文/江﨑久美子

三月は、お雛様祭りの季節。田中家の文書には、中々女性の名前は出てきませんが、その中で分かっている人物と言えば、吉政の母竹がいます。その他に名前は不明ですが、吉政の娘達の、宮廷書記官の大外記中原師廉の正室になった女性、田中家三奉行の宮川讃岐正室となった女性、同じく三奉行の磯野伯耆の息子大膳の正室になった女性、家臣草野熊之助正室、そして、忠政に嫁いできた久松院椿姫。

また、忠政の時代の田中家家臣知行割表には、筆頭に筑後守殿後家、妙寿院、慶福院、城島、北ムキ、朝妻、梅原、新庄、佐渡守後家と書かれています。宮川佐渡後家が娘だと分かりますが、それ以外は吉政との関係がよく分かりません。妙寿院は、後を継いだ忠政の母で、継室ではないかと言われています。柳川の寺にまつわる逸話に出てくる慶福院は、忠政の伯母、或いは吉政の叔母だとされます。吉政の叔母だとすると父重政の妹。或いは弟に嫁いできたか。忠政の伯母だとすると、吉政の姉で、誰かに嫁ぎ、または、吉政の兄に嫁ぎ後家となって筑後まで来たことになります。

吉政の故郷で、歴史を調べておられた湯次行孝住職の書かれた「国友鉄砲の歴史」には、「かの慶福門院が…」との一説があるのですが、この言葉が示すものは位の高さです。その伯母さんが、とっても位の高い方だった。しかし、「吉政の母慶福院」との文字もあり、謎は増すばかり。

近衛前久の姉で、一五二六年生まれの花屋玉栄という人が、同じ慶福院というらしいのです。もし、この人なら、吉政より年上で、田中家に嫁いだとなると、忠政の伯母で、吉政の兄に嫁いで後家となり筑後に居た事があった。もし、この人なら、秀吉に源氏物語を読み聞かせた話があり面白いですね。残った逸話などから紐解くには、まだまだ史料が足りませんが、益々、謎を解く楽しみが広がります。

久留米文学散歩 vol.98

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十二回

吉政公のご命日 文/江﨑久美子

吉政は、慶長十四(一六〇九)年二月十八日、江戸に向かう途中、山城国伏見において病気で亡くなりました。遺骸は、京都黒谷金戒光明寺に葬られました。

生前の金戒光明寺への偉業を讃え、法然上人の号の円光院を頂き、法名は崇厳院道越円光院とされました。葬儀は、仲の良かった宮城家の、当時隣接していた菩提寺旧永運院の手を借りて、その南方の塔頭の龍光院が葬儀を執り行い、西翁院を菩提寺として、現在も位牌が置かれています。龍光院を菩提寺と書かれている本もありますが、当時の事情を知る史料がありませんが、西翁院のご住職が、明治の頃までは、田中吉政養子主馬子孫の田中左門氏がお参りに来られていたと言われていましたので、菩提寺としては間違いないでしょう。墓石は、金戒光明寺の御影堂向かって左にひときわ大きな大宝篋院塔(だいほうきょういんとう)形式墓石で、公家や位の高い方の墓所だと聞いています。

それから、その宮城家では、吉次の孫政信が家老を勤めた時期もあったようです。同じ近江出身で、田中家とは、用が無くても会って交流があったと手紙等から読み取れると、宮城家研究者は語ります。

突然の吉政の死に、皆、それは悲しんだことでしょう。筑後国から遠い国での訃報に、親族は誰が立ち会ったのでしょうか。京都から筑後国まで船で、小倉に柳川から家老と、柳川の西方寺が遺骨を迎えに行っています。

後に、吉政の遺言で、柳川城外の藤吉村の田畑の中央に墓が設けられ、この墓所の上に城内より真教寺(後の真勝寺)を移して、菩提寺としました。位牌には、「前筑後州太守従四位下桐厳道越大居士神儀」、裏に「慶長十六年歳次辛亥二月十八日」とあります。なぜ、十六年なのか、亡くなって二年後に、寺の建設が終わったとの意味なのか、誤伝なのかは不明です。吉政公が亡くなり四一二年になります。

久留米文学散歩 vol.97

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十一回

田中道という名の街道 文/江﨑久美子

吉政は、筑後国入封後、柳川城と十支城の築城と、それを繋ぐ街道の整備をしました。

柳川城から福島城。福島城から黒木猫尾城。柳川城から黒木城。福島城から久留米城。久留米城から城島城、城島城から大川榎津城。榎津城から柳川城。柳川城から江浦城、中島城、松延城と、網の目のように繋ぎます。元々あった街道の整備と、新たに新道を作りました。

その柳川と久留米間の柳川新道を、古老は、田中道と呼びました。城下の出入りの箇所には、道の両側に堀を作り、防御対策を行いました。その新道の田中道は、百姓の次男三男を呼び寄せ、津福町、土甲呂町、下田町、金屋町、横溝町、大角町、田川町、山野町、目安町という町立てをしました。この町に住んだ者は、税金の一部が永代年貢免除となり、吉政没後に、土甲呂町や津福町の住人は、吉政を偲び「座」を作って「御免地祭り」を催しました。今でも、吉政を祀った小さな祠が、大木町横溝の(兵部社)・同町土甲呂(吉政社)・久留米市津福町(広建社)などあります。

また、以前からあった古道の「府中道」を久留米から少し離して柳川往還の田中道に繋ぎます。福島城から久留米城までは、広川町を抜け二軒茶屋から小頭町を目指します。福島城下には、久留米へ通じる意味の久留米橋という欄干があります。

そして、驚くことに、筑後国以外の隣の筑前国にも田中道と称される道が存在するのです。残念ながら、なぜ古老がそう呼ぶのかは特定できていないのですが、現在確認できる道は、大宰府インター近くから宇美町に至る乙金公民館あたりです。この田中道は、博多に通じる通常の街道とは違って、大野城市に入った後、井ノ口公民館の少し南を通り、そこからは江戸期に参勤などで使われた道を通り小倉の大里宿へ、そして港へ向かうのです。あなたも、近くの田中道を歩いてみませんか?

久留米文学散歩 vol.96

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十回
筑後国大運河計画 文/江﨑久美子

吉政の時代に開削したり、元々あった小さい川やため池を繋げて造られたとされる運河は、花宗川、山ノ井川、塩塚川、太田川、二ツ川、中ノ井川と、大昔からあったような自然な形で存在し、今も筑後国の田畑を潤しています。
吉政は、秀吉の命で、伏見の湿地帯を埋め立て整備して川や川湊を造り、伏見城周りの工事をする普請奉行たちを束ねる総監督職でした。三河国岡崎城下でも、災害で荒廃した矢作川の工事を監修しました。
運河を開鑿する他に井堰を整えたと言われる広川は、広川町から城島城まで流れ、城島城の堀の役目をしました。同じように、八女市にあった福島城には、中ノ井川と花宗川、柳川本城には、沖の端川と二ツ川、塩塚川が、堀の役目と堀割を満たすための水流となったのです。
そして、吉政公は、ついに満を持して筑後国で大運河計画を思いつくのです。
その計画は、巨瀬川が筑後川に流れ込むその場所から始まり、高良山の麓を回り込み、久留米、三潴を通り、今度は、沖端川から運河を引いていた塩塚川と結び、沖端川と交差する形で、塩塚川を大きく作り直し、有明海に注ぐという壮大なものでした。
それが完成すれば、有明海から大船が行き来して、筑後国の交通、流通は、すごい発展を遂げたでしょう。このことは、国土交通省のホームページにも紹介されている程です。
残念なことに、吉政公が亡くなることで、その計画は実現されませんでしたが、そのような計画があったことだけでもとても驚きますね。関ケ原の戦の功績で、家康からどこが良いかと尋ねられて、筑後国を選んだと言われていますが、吉政公には、この国を豊かにするぞという意気込みと、今までの経験から来る自信があったに違いありません。
その時の吉政公の目には、豊かな水に恵まれた、日本のベネチアと言えるような筑後国の風景が写っていたことでしょう。

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