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久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.97

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十一回

田中道という名の街道 文/江﨑久美子

吉政は、筑後国入封後、柳川城と十支城の築城と、それを繋ぐ街道の整備をしました。

柳川城から福島城。福島城から黒木猫尾城。柳川城から黒木城。福島城から久留米城。久留米城から城島城、城島城から大川榎津城。榎津城から柳川城。柳川城から江浦城、中島城、松延城と、網の目のように繋ぎます。元々あった街道の整備と、新たに新道を作りました。

その柳川と久留米間の柳川新道を、古老は、田中道と呼びました。城下の出入りの箇所には、道の両側に堀を作り、防御対策を行いました。その新道の田中道は、百姓の次男三男を呼び寄せ、津福町、土甲呂町、下田町、金屋町、横溝町、大角町、田川町、山野町、目安町という町立てをしました。この町に住んだ者は、税金の一部が永代年貢免除となり、吉政没後に、土甲呂町や津福町の住人は、吉政を偲び「座」を作って「御免地祭り」を催しました。今でも、吉政を祀った小さな祠が、大木町横溝の(兵部社)・同町土甲呂(吉政社)・久留米市津福町(広建社)などあります。

また、以前からあった古道の「府中道」を久留米から少し離して柳川往還の田中道に繋ぎます。福島城から久留米城までは、広川町を抜け二軒茶屋から小頭町を目指します。福島城下には、久留米へ通じる意味の久留米橋という欄干があります。

そして、驚くことに、筑後国以外の隣の筑前国にも田中道と称される道が存在するのです。残念ながら、なぜ古老がそう呼ぶのかは特定できていないのですが、現在確認できる道は、大宰府インター近くから宇美町に至る乙金公民館あたりです。この田中道は、博多に通じる通常の街道とは違って、大野城市に入った後、井ノ口公民館の少し南を通り、そこからは江戸期に参勤などで使われた道を通り小倉の大里宿へ、そして港へ向かうのです。あなたも、近くの田中道を歩いてみませんか?

久留米文学散歩 vol.96

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第十回
筑後国大運河計画 文/江﨑久美子

吉政の時代に開削したり、元々あった小さい川やため池を繋げて造られたとされる運河は、花宗川、山ノ井川、塩塚川、太田川、二ツ川、中ノ井川と、大昔からあったような自然な形で存在し、今も筑後国の田畑を潤しています。
吉政は、秀吉の命で、伏見の湿地帯を埋め立て整備して川や川湊を造り、伏見城周りの工事をする普請奉行たちを束ねる総監督職でした。三河国岡崎城下でも、災害で荒廃した矢作川の工事を監修しました。
運河を開鑿する他に井堰を整えたと言われる広川は、広川町から城島城まで流れ、城島城の堀の役目をしました。同じように、八女市にあった福島城には、中ノ井川と花宗川、柳川本城には、沖の端川と二ツ川、塩塚川が、堀の役目と堀割を満たすための水流となったのです。
そして、吉政公は、ついに満を持して筑後国で大運河計画を思いつくのです。
その計画は、巨瀬川が筑後川に流れ込むその場所から始まり、高良山の麓を回り込み、久留米、三潴を通り、今度は、沖端川から運河を引いていた塩塚川と結び、沖端川と交差する形で、塩塚川を大きく作り直し、有明海に注ぐという壮大なものでした。
それが完成すれば、有明海から大船が行き来して、筑後国の交通、流通は、すごい発展を遂げたでしょう。このことは、国土交通省のホームページにも紹介されている程です。
残念なことに、吉政公が亡くなることで、その計画は実現されませんでしたが、そのような計画があったことだけでもとても驚きますね。関ケ原の戦の功績で、家康からどこが良いかと尋ねられて、筑後国を選んだと言われていますが、吉政公には、この国を豊かにするぞという意気込みと、今までの経験から来る自信があったに違いありません。
その時の吉政公の目には、豊かな水に恵まれた、日本のベネチアと言えるような筑後国の風景が写っていたことでしょう。

久留米文学散歩 vol.95

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第九回

吉政が織田信長に影響を受けたわけ 文/江﨑久美子

田中吉政が「土木の神様」と呼ばれる程の土木技術を持っていたのは、織田信長、豊臣秀吉との関係が深く係わっていたからということを、どなたもご存じないかも知れません。今回は、その一つを少しだけ説明します。

吉政が元服した頃は、浅井長政の時代であり、長政は織田信長の妹お市を娶り、信長と同盟関係を築き、若くして北近江の国人領主として領国支配を完成しつつありました。

しかし、元亀元(一五七〇)年四月、長政は朝倉攻めの最中だった織田信長の背後を襲い、同盟を破り敵対関係になったのです。

近江の湖北地方の宮部、国友、石田らの地侍たちは地縁的繋がりにより浅井長政に従い、そのまま二か月後の六月には、よく知られる姉川の戦いに突入していくことになります。

「信長公記」の巻五には、次のようにあります。

「虎後(御)前山より宮部迄路次一段あし候、武者の出入りのため、道のひろさ三間々中に高々とつかせられ其へり敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ往還たやすき様に仰せつけらる」

虎御前山から宮部までの間が、一段と悪路だったので、兵の往来を助けるために道幅を約六・四mに広げ、浅井側に約五・五㎞に渡って道のへりに高さ約三mの築地を築かせて堀を掘って水を堰き入れ、砦からの行き来の便利を図ったのです。吉政は、その頃は、宮部継潤の配下で、田中家の小城は、そこから僅かに百メートル程東側にあったと長浜市文化財課は推定しています。周りには「内形」や「堀ノ北」「堀ノ東」「堀ノ前」等の地名が残っています。

しかも、お隣の国友村は、吉政の母方の里です。当時二十三歳の吉政は、宮部継潤の配下で、父や他の武将たちと共に体験した、まさに、郷里で行われた、一大事業であったに違いないのです。そして、吉政も、何かの役割を担ったかもしれませんね。

久留米文学散歩 vol.94

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第八回

立花誾千代姫の生涯 文/江﨑久美子

田中家と、入れ替わりで柳川城を領した立花家の誾千代姫は、永禄十二(一五六九)年、筑後国山本郡(現福岡県久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生しました。

道雪の五七歳にして初めて授かった子だったため、深く溺愛し、後継ぎとして育てました。誾千代姫は、七歳の時に、立花城の地督、城域、諸道具の一切を、大友宗麟、義統の安堵を受け譲られました。それで、女城主と呼ばれる所以です。

そして、同じ大友家の高橋紹運の息子、宗茂を婿とし、誾千代姫が、十八歳の頃立花姓を名乗りました。

宗茂は、十三万二千石で柳川城を拝領しますが、誾千代姫は、父の墓のある立花山から離れようとせず別居し、やっと柳川城に入ったのもつかの間、宗茂の心が自分にないことを知ると、柳川城の南方の宮永殿館に居を移したそうです。先日屋敷跡に行ってきましたが、お城からずいぶんと離れていて、宮永殿屋敷跡と書かれた石碑が建てられていました。

関ケ原の戦が起こり、西軍に与した宗茂は、徳川家康に下り、加藤清正の居る肥後高瀬に庇護されると、誾千代姫は同行せずに、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に母仁志姫と移り住みました。そして二年後の十月十七日に病でこの世を去ります。

久留米市善道寺にお墓があります。法名は、光照院殿泉誉良清大禅定尼です。

柳川郷土史会のお話では、仁志姫の亡くなられたのを機に、まだ柳川は田中領だったので、誾千代姫と仁志姫のお墓を、縁のある人たちによって肥後から善導寺へ移されたのではないか? とのことでした。

宗茂は、田中家改易で再封となり、柳川に誾千代姫の菩提寺寂性山良清寺を建立し、また、熊本のお墓のあった場所に、供養塔を作りました。その形がぼたもちのようなので、今も「ぼたもちさん」と呼ばれて親しまれていて、時折、誾千代姫を慕ってお参りされる方がおられるそうです。  |つづく|

久留米文学散歩 vol.93

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第七回

関ケ原の戦いと石田三成との別れ 文/江﨑久美子

関ケ原の戦直前、石田三成の命を帯びて加賀野井弥八重茂は、徳川家康暗殺を目的に関東に向かいました。そして浜松城主堀尾帯刀(徳川方)とばったり会い、加賀野井は、堀尾に伴われ池鯉鮒(ちりゅう)宿杉屋に赴き、刈谷城主水野忠重(徳川方)らと酒宴中水野を斬り、堀尾にも斬りかけたが逆に殺されてしまいます。

加賀野井の遺骸は宝蔵寺に粗末に葬られていましたが、それを知った吉政は墓石を建て丁重に弔いました。

関ケ原の戦直前、世間がピリピリとした時代、家康の目を伺うこともせず、堂々と旧友のお墓を建てるとは、情に厚く気持ちの大きい人だったのでしょうね。

そして、とうとう関ケ原の戦いが起こります。絵巻などの田中吉政陣は、誇らしくも、ほぼ一番前の中央です。吉政に付いての逸話では、関ケ原の合戦中の「合渡の戦い」で一番乗りの功績をあげました。

しかし、石田三成の捕縛での出来事こそは、彼の人柄を知る上でここに上げておかねばならないと思います。

三成は合戦後、逃亡の途中で生米を食べて体調を崩していました。三成が「一戦に利なく。無念血流断腸の思いじゃ。されど、太閤殿下への報恩と思えば、今は後悔などない。後は存分にされよ」と言うと、吉政が「数十万の軍兵を統べらしは、ゆゆしき事智謀の極みなれど、戦の勝敗は天命と申すもので御座る。我等人身の及ばざることで御座った」と言い、肩に自分の陣羽織を掛けてやりました。

三成は、吉政の好意に心を打たれ、秀吉から賜った貞宗を贈ります。その後、井口村(伊香郡高月町井口)の陣所に五日間とどめ、ニラ粥でもてなして、体調を整えた後家康の許へともなったそうです。

三成は、吉政より十二歳も年下で故郷も近い。せめて武士としての花道を飾ってやりたかったのでしょう。ちなみに、その貞宗は、現在東京都博物館に所蔵されています。

久留米文学散歩 vol.92

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第六回
戦国武将としての雄姿 文/江﨑久美子

田中吉政は、土木の功績で知られていますが、実は、戦国武将としての戦を勝ち抜く実力もありました。
一五八〇年水屋の合戦では、「吉政、白紙子羽織にて、長刀を持て黒馬に乗り、一陣に進む。垣屋が兵大阪新右衛門と言うもの、但馬・丹後にかくれなき射手也。此の者の射る矢に吉政胸板を脇へ射抜かるる。二の矢にて、又、左の脇を射抜く。吉政長刀を以って、度々矢を切り払い、相互に戦いて相引き分けになりたる」と、「武家事紀」を読むと、敵将大阪新右衛門が放った二本の矢を体に受けながら奮戦した話があります。
また、秀次家臣として摂津池田に入った際、城下に潜む不心得者を成敗した際に、顔を負傷しました。左目の少し上から鼻、そして唇迄、痛々しい傷があります。東京大学史料編纂所の田中吉政肖像画からも見て取れます。
豊臣秀吉がその傷を見て、「汝面ぬるかりしに、疵を蒙って勇猛の姿あらわる」とのたまうとあり、「やさ男だった吉政の顔が、傷ができて男っぷりがあがったじゃないか」のような解釈で、吉政は、意外とイケメンだったかもしれませんね。
一五八五年には、秀吉による根来寺攻めの後、太田城水攻めの最中、大きな体格の尼法師の朝比奈摩仙名が、一人で朱色の槍を持って小舟で漕ぎ出し、乗り移り縦横無尽に暴れまわりました。その時、吉政が長刀で立ち向かい取り押さえ、傷付けずに生け捕り秀吉の前に連れて行くと、秀吉は女性には優しかったのでしょうか、「女ながらに天晴れじゃ」と、解放し城に戻してやりました。
それらの勇ましい武将姿を描いて、初代筑後国終焉四百年事業として、田中吉政史談会主宰、八女福島文平座制作の初映画作品「田兵」VOL1が、七月十五日クランクアップしました。
DVDの完成は、九月上旬の予定です。詳しくは田中吉政史談会(〇九四三―二二ー二六三四)にお問い合わせ下さい。

久留米文学散歩 vol.91

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第五回
岡崎城での吉政 文/江崎久美子

吉政は、豊臣秀吉の重臣でした。三河国岡崎城は、徳川家康の先祖伝来の生まれた土地です。秀吉は、俗に言う関東移封、つまり家康を江戸へ移します。その三河の土地に吉政を入れるということは、信頼なしではできなかったことでしょう。
この岡崎城の時、吉政は面白い政策を執り行います。
領内の罪人を罰せず、土地と田畑を与えて更生させようとします。西尾の浜に、松の木を植樹させ、それは、海からの潮風を防ぐ防風林となり、また、西尾の塩作りの燃料に使いました。
吉政の考え方は、罪を憎んで人を憎まずだったのかもしれませんね。
そして、村人に気さくに話しかけ、城から持ってこさせた弁当を一緒に食べたそうです。寺の空き地があれば、「ここは、重要な場所か?」と聞き、「そうでなかったら、ここにお茶の木を植えよ。そして、出来たお茶を寺の客に振舞えば良いぞ。人手がいるなら言うてくれ」と言って、その後も、その茶畑に手伝いに足を運びました。
岡崎城外にあった東海道を城下に引き入れ、東西五キロの二十七曲りという街並みを作りました。当初は防御のためでしたが、曲がる度に色々な店がある、沢山の旅籠があるのですから、街並みが栄えた事は間違いなく、その後は岡崎宿として東海道の名所になって行きました。
土塁の上に造られていただけの城を、近代城郭に造り上げます。天神山という山を一つ潰し、その土で湿地を埋め立て、採取した材木で街道筋に新しい町の家々を造り「町立て」をして、そこは材木町と呼ばれたそうです。
城から北方に徳川家の菩提寺大樹寺があります。その三門、総門を通して真ん中に岡崎城の天守閣が見えます。まるで門が額縁で一枚の絵のようです。岡崎市を訪れ、市長さんにご挨拶した時、その城と大樹寺を結ぶ「ビスタライン」に、高層ビルを建てないよう努力されているとのお話を聞きました。

久留米文学散歩 vol.90

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第四回

久留米北野町西方寺縁起 文/江崎久美子

慶長十五(一六一〇)年六月二十九日は、筑後国主田中吉政次男、田中主膳正吉信のご命日です。

吉信公は、久留米城主となり病気で亡くなられた後、柳川城下の宗安寺に葬られました。多くの家臣が、あとを追って殉死したと聞きます。また、吉信公の乳母が尼となり、その命が尽きるまで境内に建てたお堂で菩提を弔い続けました。

そして筑後国終焉から十年後、吉信の家臣で、北野天満宮脇寺林松院前住持貞俊と大庄屋秋山藤右衛門が話し合い、その遺骨を柳川から北野に移して、荒廃に帰していた林松院に一宇の堂を再建し西方寺と称し、浄土宗に属し善導寺の末寺となり、顕誉良波上人を以て開山としました。

法名は、「陽壽院殿龍岳道雲大居士」です。

江戸時代中期に書かれた「筑後将士軍談」(矢野一貞)には、墓石を図入りで書き記し、道雪と道雲を間違えて書いた誤記がありました。それを最近まで郷土史研究に使い、久留米市史にまで及んでしまったことが原因で、西方寺の墓石の前に道雪の説明板が立っていました。しかし、近年、その久留米市文化財課の調査で、墓石に刻まれた文字から、吉信公の墓石だと確定し、西方寺様も、胸をなでおろされたのでした。何故なら、この西方寺様こそが、田中吉信公の菩提寺という歴史があるのですから。

ご命日は、長い間、慶長十一(一六〇六)年と寛政重修家譜等に書かれてきましたが、墓石にはっきりと慶長十五(一六一〇)年と刻まれていました。

「山鹿語類」や、「田中興廃記」は、吉信公が乱暴者で狂気の人物で十六歳位で亡くなったように書いていますが、それでは計算が合いません。関ヶ原の戦で勇敢に戦った逸話があり、単純に勇敢を面白く、狂気の人物として物語を書いたのでしょう。石に刻まれた歴史こそが、真実だったわけです。一昨年、この西方寺縁起のお芝居が、本堂で公演されました。 ーつづくー

久留米文学散歩 vol.89

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第三回

近江八幡の久兵衛町 文/江崎久美子

吉政は、豊臣秀吉の甥で養子となった豊臣秀次の筆頭家老でした。吉政は、近江八幡城主だった秀次に代わって城下の采配をしました。秀次は、京都の聚楽第に居るか、出陣しているか、記録では二度ほどしか近江八幡城には在城していません。

近江八幡城下は、柳川とよく似た佇まいで、どちらも吉政が造った清々しい町並みです。田中家屋敷跡辺りの大杉町は、吉政が、よく町民と気さくに話したことから、吉政と名乗る前の名前を親しみを込めて久兵衛町と呼んでいたそうです。

秀次は秀吉との確執で高野山で切腹して、近江八幡城と聚楽第は一気に破却されます。 最近では「御湯殿の上の日記」(宮廷の女官達で綴られた日記)から、秀次の切腹は秀吉からの指図ではなかったとの見解がなされて、大河ドラマでも今までのあらすじとは変わっていたようです。

吉政の、大外記中原師廉に嫁いだ娘が書いた日記にも、おなじような言葉で秀次をあわれに思う心情が綴られています。

それにしても、吉政は事件後に逆に領地が増えたことで、吉政が陰謀に関わっていたとか、なぜ殉死しなかったか、キャリアハイだの、物語の多くは悪人として扱う結果を招いてしまっています。大御所のライターさんでさえも、歴史の時系列を詳しく追っていないため、安易な答えを導き出したのだと思います。

重要なのは、近江八幡での筆頭家老は、秀次の直属の家老ではなく、秀吉からの付けられた家老。高野山での事件の時の吉政は、岡崎城主に移動していたので秀次宿老から外れていた。それでも、時々秀次に諫言(厳しく言い聞かせていた)していたのですから、吉政の辛い心情は計り知れません。秀吉の命令で動いていたので、秀吉が吉政の責任を問うことはなかったし、秀次亡き後の領地の采配をしてもらわなければ困る存在でした。その結果、領地が増えることになったのです。

久留米文学散歩 vol.88

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二回

豊臣秀吉は公家になりたかった 文/江崎久美子

田中吉政が寄進した梵鐘や鳥居には、公家としての姓、橘朝臣と記されています。また、吉政の娘が、大外記中原師廉に嫁いでいることでも本姓は公家であったと考えます。

娘の嫁ぎ先の中原家は、太政官外記局の首席大外記を歴代務めます。太政官の実務を担当し、中世には、文書の確認、作成……簡単に言えば書記官、日記を家業とした家だったのです。

その中原氏は、豊臣秀吉や、秀次の関白宣下(天皇から位を頂く)の際には、書状を書き示し式典を取り仕切りました。娘が嫁いだ頃の吉政は、今までの資料では何の官職も持たなかったとされてきましたが、娘の位を上げるために公家に養女に出した形跡もないのです。婚姻で、それぞれの家の位を揃えることは普通に決められていました。ちなみに、師廉の前正室が亡くなったので、再婚相手に娘が選ばれたようです。それも、結構な年の差婚のようですよ。

そしてその中原氏が亡くなり、嫡男が職を告げるまでの約二年間、歴史的には珍しく、娘が代行して日記を書いています。その日記の一説に、秀吉の居る城に呼び出され、寧々のお傍に付いてくれないかと言われたとあり、吉政の娘は、息子の教育に忙しいので無理ですと断ったと書いてあります。私はとても驚きました。秀吉に無理って言ったの?

こんなことは、父の吉政と秀吉が親しくなければ言えないことですよね。

秀吉は、公家としての位を持たなかったので、まずは元関白近衛前久の養子になって、やっと官位を得ることができました。これは朝廷の事情に明るかった吉政と中原氏を介して行われたのかもしれないと考えると、彼の今までの出生の謎が紐解かれて行く気がしますね。

吉政のプロフィールは、今まで言われてきたような、百姓から身を起こしたり、名も知れぬ武将ではなかったということがわかります。そろそろ、このような俗説は、打ち消してもよい頃だと思います。

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