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くるめ-コラム

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.115

“2012年 グアテマラ アンティグア”
写真と文 安達  和宏

2012年グアテマラCOE ”カップ オブ エクセレンス品評会”での一コマ。審査会期間中には近隣のコーヒー施設や農園を訪問するアクティビティが用意されています。この時はグアテマラシティから40kmほど離れたアンティグアという古都にある伝統的な農園=サン・ラファエル・ウリアス農園を訪問しました。古くも綺麗な花々に囲まれた建物では、オーナーのイシードロさんが我々を温かく出迎え農園の歴史や栽培状況、精製方法など詳しく教えてくれました。4代続くというその歴史と先人たちの開拓者魂を語るその声には、強く重い積み重ねからなるコーヒーづくりへの想いを感じます。周辺の山々を望むパティオで生産処理、そして乾燥されるコーヒーは口当たりがまろやかでミルクチョコ、チェリーや華やかな余韻が残ります。まもなくこの農園も販売開始、まろやかな味わいとの再会が楽しみです。

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久留米文学散歩 vol.72

夏目漱石と熊本そして久留米⑩
文/増原 達也

例のとおり元日から同じ学校の奥太一郎さんとごいっしょに年来の希望であった耶馬渓へと旅立ちました。旅の模様は知りませんでしたが、家へ帰る前日か前々日の事でありましたでしょう。豊後の日田あたりの峠で馬に蹴られ雪の中に倒れたと云って、いやな・しかめっ面をして帰って参りました。それからむやみと歩いたものとみえて、足にまめをこしらえておりました。
これは明治32年元日から奥氏と二人で耶馬渓に向けて漱石が出発した時の事を後日妻女鏡子が松岡譲の筆録で「漱石の思い出」として出版した本の一部です。この本に依ると漱石は、どの様な道順でか耶馬渓に直接行ったことになっていますが、彼が後日遺した俳句集等を覧ますと、まず「小倉」に行き
うつくしき蜑の頭や春の鯛
を詠んでいるのです。それにこの小倉には「中原慶太」と云う二松学舎の同窓生が居るのです。その人物の住所氏名は二松学舎第三輯名簿に記載されてもいます。(参考〜この人の住所〜福岡県企救郡小倉寶町)
亦これには前句として「小倉」としてあります。この企救丘と云う処は「小倉」でも「日田彦山線」に乗替えてニツ目位南下した処に位置していますので、漱石の詩とは少し違った感じがします。現在の地理や地図で判断していますので明治の時代とは「ズレ」が存っているかも知れません。
そして二日目に「宇佐」に入るのですが、ここでも前句として
正月二日宇佐に入る新暦なれば、
にや門松たてる家もなし
蕭条たる古駅に入るや春の夕
そして後6句詠んでいます。
この「宇佐」にも二人の同窓生が居ます。
都留光三郎(大分県宇佐郡宇佐村)
本村周三郎(大分県宇佐郡山口村)
当時の印刷物なので文字が不明朗な処が多く存りますので、その点はご了承下さい。そして60句程度詠まれて、久留米の追分で詠まれたであろう前句付の
追分とかいふ処にて車夫共の親方
のっていかん喃といふがあまり
可笑しかりければ
親方と呼びかけられし毛布哉
となります。旅は此処迄で、後は自宅で詠まれたものと思われます。

くるめ食素材探検 vol.62

生姜と間違えて買われる方も…
「きくいも」編
文/靏久 格(産直や 蔵肆)
きくいも、体によかちゃきくばってん、使い方がようわからん、と言われるお野菜です。ときどき、生姜と間違えて買われるかたもいらっしゃいます。

きくいもの発見は16世紀。北アメリカのインディアンが栽培していたのが始まりとされます。そのあと欧米にわたり、19世紀になってペリー来日とともに伝わったようです。ひまわり科のきくいも、1年でその土地の栄養素を全部吸収してしまうといわれるほど生命力の強い植物です。

きくいもの成分で注目されるのは「天然のインシュリン」といわれる「イヌリン」と呼ばれるもの。生の菊芋には15%前後のイヌリンが含まれているとされています。このイヌリンは消化によってオリゴ糖となり、血糖値の異常によっておこる糖尿病などに良い影響を与えるとされています。

生のままでもクセがなくシャキシャキとした食感が楽しめる他、サラダや和え物、炒め物、揚げ物などでも美味しく食べられます。味噌汁に刻んでいれるとおいしかですよ。皮はとても薄いので、コブの部分や土が残っている部分だけ取り除くだけでも食べられますが、綺麗に仕上げたい時や気になる方は綺麗に剥いてから使ってください。水ですすぎながら金たわしでこそげると綺麗に剥けます。もちろん表面をつるっと仕上げたい場合はナイフを使ってください。味噌漬けするなら一週間くらいで食べられますが、あまり中まで味ははいっていきませんでした。酒粕1に味噌2くらいいれて漬け込んでもおいしかですよ。

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新・落語スズメvol.4

「噺家の主張」
文/松田 一成

久留米某所、最近テレビでもお馴染みになった噺家さんの落語会、ホームゲームの心強さか、マクラから飛ばす飛ばす。テレビ言えないこと、いや、言いたいことをどれだけ我慢しているのか、「私の考える正義」ほぼ中年の主張。きっかけはこうだ。某番組でコメンテーターをしている件の師匠、某親方の某協会退会のコメントを求められたときだ。一言「相変わらず勝手な方ですね。」放送後、テレビ局にクレームの電話、ネットでは炎上、自身のブログには噺家やめてしまえとも。一面的な正義の怖さを思い知らされることに。師匠にすれば、噺家も、某協会も同じ徒弟制度、特殊な世界の中で、独特の価値観が存在してたとしても、師匠が弟子を思う気持ち、親が子を思う気持ちは世の中と変わらない。子の為ならどんなに辛くとも最後まで守ってやるのが親の役目だろうと。それを途中で放り出す無責任さを突いた、実に噺家らしいシニカルなコメントだと思ったのだが、しかし、実際は見事に裏目。噺家としてテレビに呼ばれている役割も理解しているし、公共の電波に乗る以上、言葉には充分気を付けていたのだが、本当に今回の件は驚いたと。その話題で、マクラの半分の時間、高座を盛り上げていました。ではもう半分の時間は何の話題か。最近、自身に入門した弟子のせいで、どれだけストレスが溜まっているかという話。笑った笑った。噺家はこうでなくては。

歯は健康のバロメーター vol.20

「口をけがしたときには、
歯の変色に注意して下さい。」

おちあい小児歯科医院 院長 落合 聡

つかまり立ちをして滑ったり、よちよち歩きをして転んだり、1歳頃のこどもたちにはよく見られるアクシデントです。その際に最もよくぶつけるのが上の口唇、そして次にオトガイと呼ばれる下顎の前方のあたりです。上の口唇をぶつけると、口唇が上に引っ張られるような力が加わるため、上口唇と歯肉をつなぐスジ(上唇小帯:じょうしんしょうたい、といいます)が切れたり、上の前歯の歯肉が剥がれてしまったりすることがよくあります。また、下顎をぶつけた場合には下顎の皮膚に傷を負ったり勢い余って下口唇に上の前歯が突き刺さってしまうこともあり、いずれにしても受傷直後にはかなりの出血を生じるのが口の周りのけがの特徴です。
出血している部分の縫合処置等が必要かどうかについては、誰もが心配し注意してみていますが、それと同時に気をつけないといけないことがあります。それは歯の変色です。
歯は強い衝撃を受けると、折れたりぐらぐらになったりすることがありますが、このような症状がないのに、歯の中身である歯髄(神経と呼ばれている部分)が死んでしまうことがあります。そうなると血液の循環がなくなり、その結果歯の色が赤黒く変色してきます。ただし、その変色はぶつけた直後ではなく2~3日後、ときには1か月以上経過してようやく明らかになることもあります。稀に自然に元に戻ることもありますが、変色が生じてしまった多くの場合には歯髄を除去する治療が必要となります。
口の周りにけがをしてしまった、あるいは強くぶつけてしまった、という場合、歯の方は何でもないようにみえても、しばらくの間は変色が生じてこないかどうか、歯磨きの時などには注意してみてあげて、おかしいな?と思ったらすぐにかかりつけの歯科医院にご相談することをお勧めします。

むすんで、ひらいて!! vol.55

「幼児心理カウンセラーについて」
一般財団法人田中教育研究所
幼児心理カウンセラー  野田 鏡子

幼児心理カウンセラーとして2014年から毎月コラムを掲載させていただき55回目となりました。これまで、私が幼児教育者として学んだこと、経験して来た事を思いのままに書いて来ましたが、参考になっているでしょうか。

今回は、そんな私の幼児心理カウンセラーという資格が、どういったものなのかを少しご説明したいと思います。

この資格は、財団法人 田中教育研究所の幼児教育者を対象としたもので、2007年より資格の認定制度が開始されました。

子どもの発達上で問題が起こったとき、それをどう解決していったらいいか、発達を促進するためにはどんな働きかけが必要か、専門的な技法と知識によって発達を促す事が目的です。

幼児は周りの状況が変化すると、発達上問題になっている部分が嘘のように変わっていくことがよくあります。特に、2・3歳までの早期発見、早期指導は効果的です。

また、田中教育研究所は、終戦間もない1948年に設立され、日本で最も古い歴史を持つ研究機関でもあります。個別式知能検査(田中ビネー式知能検査)は、現在でも医療・教育・福祉などさまざまな分野で活用されている日本を代表する検査法です。

子どもは常に変化し、伸びようとしています。伸びようとしている芽を見つけ手助けをしてあげる事が幼児心理カウンセラーの役目だと思っています。

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子どもの為の洋ひろしじいちゃんの絵ごころ指南!! Vol.8

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山

「塗る」と「描く」の違い

「塗る」という漢字は「手偏」ではない。「描く」は「手偏」である。
「絵を描く」とはいうが、「絵を塗る」とはいわない。
ところが、多くの幼稚園・保育園では「塗る」と「描く」との違いを厳格に使い分けていないように私には思える。
「画用紙の白いところを塗りつぶしなさい」と指導している園が多いようだ。
各園は「自由画帳」を用意している。それらに描かれている幼児の絵は大方描線のみのことが多い。もしその「自由画帳」にすら「塗り絵」的作品を発見されたときには、保護者の方は「うちの子の絵はこれでいいのか」と質問されるがいいと思う。
「絵のコンクール」などの幼児の応募作品には「塗りつぶさせた」ものが多い。
いままで、繰り返し述べて来たように「塗り絵」は幼・小年期の絵画活動の最大の敵である。
しかしそれを強要しているのが大人であり、まして教育・福祉機関であるとすれば幼児、児童は被害者でありそれらの施設は加害者的存在ということになる。
その被害者(上の右の作品)が回復し、左の作品「雨降り」を描けるようになるまでに三年かかった。
この作品も「描く」ことにまず自信を持たせるために、鉛筆の使用を禁じ、黒のクレパスのみの描線指導から始めた。
やがて黒色との混色をS君は気にすることは無くなった。
真ん中にまず自己主張としてS君自身を描き、その前後の友人の存在や道や通学路に建つ家を黒の描線で一気に描いた。
ここにはすでに「塗り絵」の影響は皆無。経験を思い出した自信のある作品になって、すでに自分のおかれている環境に目が注がれている。
S君は読書も大好きになった。
読書と絵画が身についた思春期の同君の将来を楽しみにしている。

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▲【S君 保育園年中組作品】

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▲【S君 小二年時作品】
「全日本こども美術展」受賞

くるめ食素材探検 vol.61

英語ではセルリー、セレリーとも。

「セロリ」編

文/靏久 格(産直や 蔵肆)

英語では「celery」ですが日本語では セロリ と言うことが多いようです。

セロリはセリ科の植物でヨーロッパから中近東にかけてのあたりが原産。なんと一世紀の文献にでてくるほど古くからおつきあいのある野菜なんですね。もっともそのころは薬用が主で、胸やけや利尿、目の炎症などに効果あり、とのことですが、どうやって使ってたんでしょうかね。搾り汁でも点眼してたのでしょうか。恐ろしい。もっとさかのぼって古代ローマでは男性の強精や整腸剤、またお祭りなどの飾りなどで使われていたようです。

日本に来たのは江戸時代。一説では、加藤清正が日本に持ち帰ったとされることから「清正人参(きよまさにんじん)」と呼ばれていたようです。日本に持ち込まれた当時は香りが強い為普及しなかったようです。オランダミツバ、の異名もありますので、長崎経由だったのかもしれません。戦後欧米の食文化が流入してくるとともに本格的に栽培が始まりました。いまではスープやシチュー、野菜ジュース、ピクルスなど私たちの食生活になじんでいますね。葉は香りが強いから苦手という方もおられますが、カロテンに関していうと茎の約2倍の量含まれています。加熱すると食べやすくなりますので炒め物や温かいサラダなどでいかがでしょうか。

主な産地は長野県と静岡県。この二県で全体の六割を作っているそうです。福岡は四位くらいでしょうか。瀬高のあたりは高菜だけでなく、セロリも生産組合があるほどの産地。「博多セロリ」ブランドで、例年ですと11月下旬より出荷。春先まで私たちの食卓を楽しませてくれるようです。

選ぶコツは、茎が肉厚で「C」の形に丸まっているもの。茎の色は、白いものほど甘いように思います。切り口と葉先がみずみずしいものが新鮮な証拠です。鮮度が落ちてくると先が黄色くなってきます。セロリをお家で保存する時には、葉と茎をまず切り離し、それぞれを新聞紙で包みます。それから立てて冷蔵庫に入れてあげることで1週間ほどは保存可能です。

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コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.114

“2018年 ニカラグア”

写真と文 安達  和宏

2018年ニカラグアCOE ”カップ オブ エクセレンス品評会”での一コマ。初めてCOEに参加したのが2008年ボリビアですから、早いものであれから10年経ちました。インターナショナル ジュリー(国際審査員)として毎年参加していると、顔ぶれは大分変わりましたが、自身…品評会に於ける高揚感と審査に対する緊張はその時となんら変わりません。却って多くの生産者や、コーヒーづくりに関わる人々の想い・その情熱に出会った今日、当時以上に熱く感じるモノがあります。生産国に於けるコーヒーづくりの品質向上と生産者の生活/社会環境の向上に根ざしたこのプログラムですが、ここに参加出来きる事に感謝の気持ちで一杯です。そのベースとなったのが、買付けグループでの勉強会です。3ヶ月に1回のペースで行うこの勉強会ですが、ちょうどこの原稿書いている前日に、あだち珈琲担当で福岡にて開催されました。全国から集まったメンバーと研鑽しながら、まだまだ勉強の続きを楽しみたいと思います。

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久留米文学散歩 vol.71

夏目漱石と熊本そして久留米⑨

扨この(株)春陽堂書店ですが、この社の創業者は和田篤太郎で彼は一兵士として西南戦争(西南の役)に参加、帰還後に本を背負って行商から創めたと遺されています。何でも彼は岐阜県の出の様ですから当然官軍だったのでしょう。

西南戦争は明治10年に西郷隆盛を頭とする不平士族が兵を挙げ、明治を作って以降士族の最大且つ最後の反乱で、これに西郷が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒達が参加しています。併し熊本城の攻略に失敗、隆盛は自刃、以降政府の主導と中心は自由民権運動に変わるのです。

西南戦争の総決算(明治史から)

政府軍 兵力 六0,八三一人

死傷 一五,八0一人

戦費 四一,五八七,七ニ六円

西郷軍 兵力 約四0,000人

死傷 約ニ0,000人

処刑   ニ,七六四人

斬首刑 ニ三人

〜詳説日本史研究一九八九年度版から〜

前にも書きましたが、春陽堂は創業者の和田篤太郎が西南の役から帰還後行商から創め、新桜田町に小さな書店を開き、明治15年(一八八二年)頃から木版に手を伸ばしています。伝えられる処では、この和田篤太郎氏は木版画をこよなく愛しており、手の込んだ木版口絵を入れた本を出版することを自社の目標にしていたと伝えられています。併し当時、木版画は全て手作業でコスト面と大量生産が難しかったので、一作品に付き三百部から五百部程を刊行していたと伝えられています。ですから当時としては優れた口絵単行本が出版されていた様です。そして一八八四年(明治17年)頃は京橋区南小伝馬町に移転、その翌年には早くも外国物の本まで出版するに至ってます。明治30年に入ると「中央文学」や「新小説」に「草枕」が出るのですが、それにしてもその春陽堂が現在迄存続した原因ですが、色々と存るとは思いますが、女系の経営者(全般的には保守的で時々光る物を出す)であったのが一ツの原因だった様です。 |つづく|文/増原 達也

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