Home > 久留米文学散歩 > 久留米文学散歩 vol.94

久留米文学散歩 vol.94

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第八回

立花誾千代姫の生涯 文/江﨑久美子

田中家と、入れ替わりで柳川城を領した立花家の誾千代姫は、永禄十二(一五六九)年、筑後国山本郡(現福岡県久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生しました。

道雪の五七歳にして初めて授かった子だったため、深く溺愛し、後継ぎとして育てました。誾千代姫は、七歳の時に、立花城の地督、城域、諸道具の一切を、大友宗麟、義統の安堵を受け譲られました。それで、女城主と呼ばれる所以です。

そして、同じ大友家の高橋紹運の息子、宗茂を婿とし、誾千代姫が、十八歳の頃立花姓を名乗りました。

宗茂は、十三万二千石で柳川城を拝領しますが、誾千代姫は、父の墓のある立花山から離れようとせず別居し、やっと柳川城に入ったのもつかの間、宗茂の心が自分にないことを知ると、柳川城の南方の宮永殿館に居を移したそうです。先日屋敷跡に行ってきましたが、お城からずいぶんと離れていて、宮永殿屋敷跡と書かれた石碑が建てられていました。

関ケ原の戦が起こり、西軍に与した宗茂は、徳川家康に下り、加藤清正の居る肥後高瀬に庇護されると、誾千代姫は同行せずに、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に母仁志姫と移り住みました。そして二年後の十月十七日に病でこの世を去ります。

久留米市善道寺にお墓があります。法名は、光照院殿泉誉良清大禅定尼です。

柳川郷土史会のお話では、仁志姫の亡くなられたのを機に、まだ柳川は田中領だったので、誾千代姫と仁志姫のお墓を、縁のある人たちによって肥後から善導寺へ移されたのではないか? とのことでした。

宗茂は、田中家改易で再封となり、柳川に誾千代姫の菩提寺寂性山良清寺を建立し、また、熊本のお墓のあった場所に、供養塔を作りました。その形がぼたもちのようなので、今も「ぼたもちさん」と呼ばれて親しまれていて、時折、誾千代姫を慕ってお参りされる方がおられるそうです。  |つづく|

Comments:0

Comment Form
Remember personal info

Trackbacks:0

Trackback URL for this entry
http://kurumestyle.com/wp/wp-trackback.php?p=2060
Listed below are links to weblogs that reference
久留米文学散歩 vol.94 from くるめ-コラム

Home > 久留米文学散歩 > 久留米文学散歩 vol.94

Search
Feeds
Meta

Return to page top