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久留米文学散歩 vol.93

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第七回

関ケ原の戦いと石田三成との別れ 文/江﨑久美子

関ケ原の戦直前、石田三成の命を帯びて加賀野井弥八重茂は、徳川家康暗殺を目的に関東に向かいました。そして浜松城主堀尾帯刀(徳川方)とばったり会い、加賀野井は、堀尾に伴われ池鯉鮒(ちりゅう)宿杉屋に赴き、刈谷城主水野忠重(徳川方)らと酒宴中水野を斬り、堀尾にも斬りかけたが逆に殺されてしまいます。

加賀野井の遺骸は宝蔵寺に粗末に葬られていましたが、それを知った吉政は墓石を建て丁重に弔いました。

関ケ原の戦直前、世間がピリピリとした時代、家康の目を伺うこともせず、堂々と旧友のお墓を建てるとは、情に厚く気持ちの大きい人だったのでしょうね。

そして、とうとう関ケ原の戦いが起こります。絵巻などの田中吉政陣は、誇らしくも、ほぼ一番前の中央です。吉政に付いての逸話では、関ケ原の合戦中の「合渡の戦い」で一番乗りの功績をあげました。

しかし、石田三成の捕縛での出来事こそは、彼の人柄を知る上でここに上げておかねばならないと思います。

三成は合戦後、逃亡の途中で生米を食べて体調を崩していました。三成が「一戦に利なく。無念血流断腸の思いじゃ。されど、太閤殿下への報恩と思えば、今は後悔などない。後は存分にされよ」と言うと、吉政が「数十万の軍兵を統べらしは、ゆゆしき事智謀の極みなれど、戦の勝敗は天命と申すもので御座る。我等人身の及ばざることで御座った」と言い、肩に自分の陣羽織を掛けてやりました。

三成は、吉政の好意に心を打たれ、秀吉から賜った貞宗を贈ります。その後、井口村(伊香郡高月町井口)の陣所に五日間とどめ、ニラ粥でもてなして、体調を整えた後家康の許へともなったそうです。

三成は、吉政より十二歳も年下で故郷も近い。せめて武士としての花道を飾ってやりたかったのでしょう。ちなみに、その貞宗は、現在東京都博物館に所蔵されています。

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