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久留米文学散歩 vol.90

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第四回

久留米北野町西方寺縁起 文/江崎久美子

慶長十五(一六一〇)年六月二十九日は、筑後国主田中吉政次男、田中主膳正吉信のご命日です。

吉信公は、久留米城主となり病気で亡くなられた後、柳川城下の宗安寺に葬られました。多くの家臣が、あとを追って殉死したと聞きます。また、吉信公の乳母が尼となり、その命が尽きるまで境内に建てたお堂で菩提を弔い続けました。

そして筑後国終焉から十年後、吉信の家臣で、北野天満宮脇寺林松院前住持貞俊と大庄屋秋山藤右衛門が話し合い、その遺骨を柳川から北野に移して、荒廃に帰していた林松院に一宇の堂を再建し西方寺と称し、浄土宗に属し善導寺の末寺となり、顕誉良波上人を以て開山としました。

法名は、「陽壽院殿龍岳道雲大居士」です。

江戸時代中期に書かれた「筑後将士軍談」(矢野一貞)には、墓石を図入りで書き記し、道雪と道雲を間違えて書いた誤記がありました。それを最近まで郷土史研究に使い、久留米市史にまで及んでしまったことが原因で、西方寺の墓石の前に道雪の説明板が立っていました。しかし、近年、その久留米市文化財課の調査で、墓石に刻まれた文字から、吉信公の墓石だと確定し、西方寺様も、胸をなでおろされたのでした。何故なら、この西方寺様こそが、田中吉信公の菩提寺という歴史があるのですから。

ご命日は、長い間、慶長十一(一六〇六)年と寛政重修家譜等に書かれてきましたが、墓石にはっきりと慶長十五(一六一〇)年と刻まれていました。

「山鹿語類」や、「田中興廃記」は、吉信公が乱暴者で狂気の人物で十六歳位で亡くなったように書いていますが、それでは計算が合いません。関ヶ原の戦で勇敢に戦った逸話があり、単純に勇敢を面白く、狂気の人物として物語を書いたのでしょう。石に刻まれた歴史こそが、真実だったわけです。一昨年、この西方寺縁起のお芝居が、本堂で公演されました。 ーつづくー

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