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久留米文学散歩 vol.87

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第一回

物語の始まりの如く

文/江崎久美子

初めまして。生まれも育ちも福岡県八女市、福島城下白壁の町家で陶芸カフェをしています。縁あって、田中吉政という江戸時代のお殿様の史談会理事の一人になりました。

遠い昔、私たちの筑後地域は、筑後国と呼ばれていました。

天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉が九州を平定し国分けをした時、筑後国が四つに分けられ、毛利秀包が久留米七万五千石、筑紫広門が山下一万八千石、立花宗茂が柳川十三万二千二百石、高橋直次が江浦一万八千石を拝領しました。

秀吉が亡くなり、慶長六(一六〇〇)年、関ケ原の戦がおこり、西軍の主宰石田三成を捕えた功績を徳川家康に認められ、筑後一国三十二万五千石の国主となったのが田中吉政です。

田中吉政のフルネームは、初代筑後国主田中橘朝臣吉政、官位は従四位下筑後守、兵部大輔です。天正十八(一五四八)年、近江国(現滋賀県)生まれです。橘は、公家の姓で、藤原氏、橘氏、源氏、平氏が公家の代表として「藤橘源平」と呼ばれたりします。

田中家は、後の世継ぎ問題が起こり二代目の忠政で一旦終焉してしまい、長男と三男の家系が、田中家として再興し旗本(中央官僚)、養子の家系は彦根藩士として続きます。

田中家が去った元和六(一六二〇)年の筑後国は、また三つに分けられ、有馬豊氏久留米二十一万石、立花宗茂柳川十万石、高橋種次三池一万石に。それで、後にも先にも、筑後国主という官職は吉政親子だけなので、初代筑後国主だということになります。

吉政の生涯は、謎に包まれていて、その謎多き武将がゆえ、テレビや映画などの物語に、登場させるのに作家が躊躇し出さなく、より表に出てこない現実となっています。

それで、その謎と真実を少しずつ、分かりやすくお伝えしていこうと思います。あなたの俗説は合っていますか?福岡県南部が、一つの国だったころのお話、そして、吉政が、そこまで来た戦国時代のエピソードの数々、江戸時代までの歴史の旅へご案内します。-つづく-

※今月号から新連載「田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ」が始まります。

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