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久留米文学散歩 vol.76

怪火③
文/増原 達也

そして十八年ニ月末頃か3月初旬に呉の港から戦地に向けて出発しました。忘れておりましたが、私は父の任地の街で幼稚園にいっています。その街では幼稚園はニヶ処しかなく、それも小学校の中に設置されていました。その時の写真も現在手元にあります。それには昭和十三年と記されていますので、太平洋戦争が勃発する三年前と云う事になります。そして多分、父が航空隊を設りに呉から任地に行く時も呉の駅から汽車で行ったと思います。何故ならば、その時、私は呉の駅構内で自動販売器で「キャラメル」だか「チョコレート」を買った記憶があるからです。その自動販売器は今のと殆ど変わりなかったと思います。只、現在の様な派手さはなかったと思います。処が父が戦地に征くようになって呉の駅に自動販売器は存ったのですが、商品は既に出なくなっていました。その時何故出ないのかと、父に尋ねた記憶も存ります。併し、父は良い返事はしませんでした。それだけは鮮明に遺っています。当時、軍港には余り近く迄は行けませんしたので艦に乗る処は見ていません。只、母方ニ人の母の妹と父方の兄弟だか親類の若い人が二〜三人お見えになっていたのは憶えています。その時、「青江(刀)と爪は蝋漬けにするから」と父の兄が父に話しているのが耳に遺っています。当時その意味は分からなかったからです。青江と云うのは刀で、備前青江でニ振り(大・小赤鞘)の事だったのですが、これは父の戦死の公報後、葬儀の時まで、そのまま父の実家にあった様です。それを蝋漬けにして墓に埋めたのは、戦後、それも占領軍の取締りが厳しくなると噂が広まっての事であった様です。刀で思い出しましたが、戦地に征くことが決まってから父が縁側で刀の手入れをしている時、「儂が、こんな物を、振り回す様では・・・」と母と話している処が記憶に遺っています。その刀が青江だったか、どうかは記憶に存りませんが、戦地に征く時、友人達から刀を一振だか、二振だかを頂いた様です。青江以外の刀が、どうなったかは知りません。

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