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久留米文学散歩 vol.75

怪火(あやしび)①
文/増原 達也

それは昭和18年初春の夜の出来事です。何故年月を正確に記憶しているのかと云いますと、昭和16年の12月中旬、日本が「太平洋戦争」に突入、その絶頂期で、以後は坂を下るが如く敗退に敗退を続け、昭和20年8月15日には米軍を中心とする連合軍に降伏、日本国がその管轄下(占領)に置かれる事となったのです。その天下分け目の戦いが「ガダルカナルの戦」でした。この当時、日本の同盟国であったドイツもスターリングラードとコーカサスに向けて新しい攻撃を開始したが、ソ連軍の反撃により同地を包囲していた30万にのぼるドイツ兵が犠牲となり、これがドイツの転換点で、急速に敗色(同年月)を強めてゆくのです。こんな時期、父に召集が来たのです。元々海軍の軍人ではあったので、当然と云えば当然なのですが、入隊以来、当時設立されていた「軍需省」の勤務であった為、戦からは離れていた様です。当時どんな方法で父に通知があったかは知りませんが、或る地方で「海軍航空隊」を設る為、そこの軍需部に派遣されて居た様です。今考えると「航空隊」を設る為の資材調達の責任者だったのでしょう。だからその「軍需部」での軍人は父一人で後は全員一般の職員だった様に子供心に残っています。そこに来る前は、何でも「海軍工廠」(播磨)の方に居たとかで、常に後方を歩いた様です。そう云えば軍需部にいた当時の昭和17年夏ですが、「野球大会」で優勝した記念写真が残っています。勿論この時も全員海軍の服ではありません。その試合を観たのか、父がマウンドに立っている姿は記憶しています。そんな軍人であったので艦に乗る等、とても出来なかったのでしょう。戦地に行く事が内定して以後、同期生だか同年兵だかが毎夜尋ねて来て、「お前は艦隊勤務をした事が無いのだから、一度それをやってからと云う事にしては・・・」とか「お前はリウマチ持ちだから、それが治ってからとの診断書を書いて貰ったら」とか、来宅した人達が口々に助言していたのが、子供心に遺っています。

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