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久留米文学散歩 vol.74

夏目漱石と熊本そして久留米⑫

文/増原 達也

耶馬渓に漱石が行った事は鏡子さんが奥太一郎氏と一緒だった事まで「漱石に思い出」の中に書き遺しています。明治30年には久留米に来て菅虎雄に会っています。そして3月28日には高良山に登り発心公園まで歩いた事は30年4月16日に手紙で正岡子規に知らせます。その文面は、・‥・‥今春期休に久留米に至り高良山に登り夫れより山越えを致し発心と申す処の桜を見物致候帰途久留米の古道具屋にて士朗と淡々の軸を手に入候につき・‥・‥と漱石は書いています。夫れが同年3月27日から28日に掛けての事だった様ですが、この時漱石が虎雄に会いに行ったのは、この両氏の友人である狩野亨吉が虎雄に連絡が取り難くなっていた事を漱石に溢し、それならと、漱石が直接虎雄に会って亨吉との連絡の橋渡しをした格好になっているのです。この時漱石は虎雄に会って亨吉からの用件を伝えたものと思われますが、用件の内容は不明です。丁度その日は久留米地区は雨だったのですが、夕方頃天気が持ち直し明日は晴天になりそうになり、漱石は急遽高良山に行き発心にまで足を伸ばして桜を見物する事を3月27日の夕方に思い立っているようです。この辺の天候については平成6年に気象庁が発表した「百年の気象記録」に依るものです。その道を小生も同時期に2〜3度歩いて、飯田春畦や老松宮を知る事となったのです。そして、この老松宮は祭神が菅原道真であり、この宮の側まで「筑後川」の川幅が存った事まで知りました。現在の川幅になるまでには二度の大きな工事が存り、大正初期の工事後には「堰神社」も造られています。この神社と堤防は元久留米藩主の末裔の方の寄進に依って建立されたと記されています。そして、同所は既に観光地化され、この堰神社が余りにも立派なので、その堤防の下になっている老松宮は判り難くなっています。私が最初その宮を見いだした際は本当に小さく、この老松宮の字も崩して存りましたので、それと知る迄には20〜30年の時が経過して居たと思います。処が現在の神社は立派になり、お宮らしくもなっています。その宮の前から飯田春畦さんの家は観えるのです。現在は同氏から二〜三代目の方が生活されていますが、昭和27年頃迄は同所は医院であったと、その20〜30年前にお伺いした時お話しされ当人はその時、私は養子です、と付け加えておられました。先代は一(はじめ)さんでその前が春畦さんですと家系図で説明されて下さいました。家系図では春畦は十二代目で、一さんは当時の千葉医専の第1期卒業生である事も付け加えられておられました。まだ書き遺したことは多くあるのですが、今回もこれで筆をおきます。

拝殿に花咲き込むや鈴の音(漱石) ー終ー

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