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久留米文学散歩 vol.72

夏目漱石と熊本そして久留米⑩
文/増原 達也

例のとおり元日から同じ学校の奥太一郎さんとごいっしょに年来の希望であった耶馬渓へと旅立ちました。旅の模様は知りませんでしたが、家へ帰る前日か前々日の事でありましたでしょう。豊後の日田あたりの峠で馬に蹴られ雪の中に倒れたと云って、いやな・しかめっ面をして帰って参りました。それからむやみと歩いたものとみえて、足にまめをこしらえておりました。
これは明治32年元日から奥氏と二人で耶馬渓に向けて漱石が出発した時の事を後日妻女鏡子が松岡譲の筆録で「漱石の思い出」として出版した本の一部です。この本に依ると漱石は、どの様な道順でか耶馬渓に直接行ったことになっていますが、彼が後日遺した俳句集等を覧ますと、まず「小倉」に行き
うつくしき蜑の頭や春の鯛
を詠んでいるのです。それにこの小倉には「中原慶太」と云う二松学舎の同窓生が居るのです。その人物の住所氏名は二松学舎第三輯名簿に記載されてもいます。(参考〜この人の住所〜福岡県企救郡小倉寶町)
亦これには前句として「小倉」としてあります。この企救丘と云う処は「小倉」でも「日田彦山線」に乗替えてニツ目位南下した処に位置していますので、漱石の詩とは少し違った感じがします。現在の地理や地図で判断していますので明治の時代とは「ズレ」が存っているかも知れません。
そして二日目に「宇佐」に入るのですが、ここでも前句として
正月二日宇佐に入る新暦なれば、
にや門松たてる家もなし
蕭条たる古駅に入るや春の夕
そして後6句詠んでいます。
この「宇佐」にも二人の同窓生が居ます。
都留光三郎(大分県宇佐郡宇佐村)
本村周三郎(大分県宇佐郡山口村)
当時の印刷物なので文字が不明朗な処が多く存りますので、その点はご了承下さい。そして60句程度詠まれて、久留米の追分で詠まれたであろう前句付の
追分とかいふ処にて車夫共の親方
のっていかん喃といふがあまり
可笑しかりければ
親方と呼びかけられし毛布哉
となります。旅は此処迄で、後は自宅で詠まれたものと思われます。

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