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久留米文学散歩 vol.70

夏目漱石と熊本そして久留米⑧

文/増原 達也

扨、この「草枕」を小説として出版する切掛けを作ったのは「本多嘯月」と云う春陽堂の社員であった様です。と云うのは彼が会社に通う道筋に漱石宅が存り、その前を通って電停に行くのが通勤の道筋だった様で、その時分は、既に漱石は有名人となっており、雑誌「新小説」もある程度軌道に乗った頃だった様です。そんな事で本多氏は日露戦争(明治37年〜同38年)も終りこれが、これからの日本文壇にどの様な影響を及ぼすかとか、雑誌「新小説」にはどの様な影響が存るかを漱石に伺いに行ったと云うか通勤途中の道筋でもあるので彼は立ち寄ったと云うのです。丁度その日は漱石宅は畳替えをしており、家の中をうろうろしながら、それでも漱石は心良く応じてくれた、と本多氏は書き遺しています。漱石の機嫌も良かったのでしょうが、この本多と云う人もその日が初めてではなく、それ迄に通勤途中、何度も漱石には逢っており彼が漱石から好感をもたれていた事は察せられます。それにこれ迄も、1〜2の作品を春陽で出版してもいます。そして「草枕」執筆の承諾を得るのですが、1週間で上梓するから、その間は来るな、と漱石から云われており、彼は七日目の朝に漱石宅に出掛けたと云うのです。すると10行20字詰め原稿ニ百枚が出来上がっていたのです。本多氏は一日の遅れもなく上梓した健筆には敬服したと書き遺しています。それが、「草枕」です。この頃の事を漱石の妻女鏡子も彼が机に向かうと印刷でもする様に次々に原稿用紙が上がっていたと「漱石の思い出」の中に遺しています。それに訂正もなかったと伝えられています。これには小天への思いが強かった事、即ち「那美」さんの思い出の強さを表現しているとも云え、亦経済的な余裕が裏付けされているからでしょう。この頃の作品を列記してみると「吾輩は猫である」(ホトトギス)に連載。「倫敦塔」(帝国文学)、「カーライル博物館」(学塔)、「幻影の盾」(ホトトギス)、「琴のそら音」(七人)、「一夜」(中央公園)に、そして明治39年になって「趣味の遺伝」(帝国文学)と云った具合で経済的にも可成り余裕が出来ていた事を物語っています。

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