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久留米文学散歩 vol.69

夏目漱石と熊本そして久留米⑦
文/増原 達也

別項に記載していますが、現在は彼女が「自殺未遂」した場所は様変わりしています。彼女の心理を紐解く事は難しいのですが、当時の状況を様々の本から読み込んで、死ぬ気は無かったと思われます。
併し漱石には可成りショックだった様で、その頃にも(柳散る…)を残し、また句の様に至るのです。
只この時の気持ちは彼にとっては忘れがたいものだった様で7〜8年後の「草枕」を執筆した際には前段部分に似た様な文章を遺しています。それが「春は眠くなる……」から5行程ですが、この中には外国の詩人(シュレー)の内容と似た処もある様です。
扨問題の「草枕」ですが、明治39年9月号の「新小説」と云う雑誌に一括で載せられています。これが大変好評で売切れが続く有様だった様です。これを読んだ朝日新聞社の社主が、当時は東京と大阪とに分かれており、これを読んだのは大阪側で東京に連絡、小説記者として入社して貰う様、活動せよとなったそうです。その使者に立ったの、池辺三山です。本名は池辺吉太郎でこの人物は熊本県玉名郡横島の出身で先代は西南戦役の際、薩摩に参加、その戦後斬首されています。その吉太郎も参加はしたのでしょうが、まだ未成年だった為に生き残っています。その吉太郎が漱石と同じ明治14年の二松学舎入学者名簿に名前が存るのです。処が両者が書き遺している物には両者共に入社交渉のあった時が初対面と遺しています。漱石に至っては、西郷隆盛を彷彿させる人物であったと遺しており、三山の方が朝日新聞を早く辞めるのですが、亦三山の方が早く死にもし、その際の悼辞は漱石が書いています。漱石と三山は二松学舎の同じ時期に入り、同じ名簿にも名を連ねているのに何故朝日の入社時まで逢う事がなかったのか、その辺の事を一度ゆっくり調べてみたいと思います。只朝日が入社交渉に行く前に読売新聞も入社交渉に行っているのですが、何故か漱石は断っています。
尚、二松学舎の名簿には夏目金之助ではなく塩原金之助で掲載されており、夏目漱石に返るのは可成り後になります。

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