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久留米文学散歩 vol.67

夏目漱石と熊本そして久留米⑤
文/増原 達也

この井川渕に転居して来たのは31年3月で次に転居したのが同年7月に内坪井町です。ここが私が最初に熊本で漱石の足跡を尋ねた所になったのですが、順に書くと下通町から合羽町ニ三七(現坪井ニ丁目一)で次が大江村四0一に転居、そして井川渕八となるのです。(少し違った処があるかも知れません。)ここが鏡子の入水の地です。もう20年以上も前にそこを尋ねてみました。藤崎八幡宮から白川に沿って下った2〜3百米の処に「明午橋」と云うのが架かり、その右側の川渕なのですが、当時と違い川の両岸に大きな堤防が設けられていますので、川幅は可成り狭くなり川の流れも急になっている気がしました。その橋の中央迄進み当時の状況を想像してみました。話に依ると「彼女を最初に助けたのは、その川で漁をしていた漁師だった。」と伝えられています。と云う事は彼女が入水する時から漁師の目に姿は入っていた事になり、彼女には距離からして助けられる事は計算尽くだったと思われました。早い話漱石に対する「脅し」に外ならなかったのでしょう。問題はこれからです。五高教授と云えば地区、いや日本でも当時は知名士です。新聞社が直ぐ知る事になり、若しかしたら翌朝の紙面には三面に大きく、「教授浮気で、妻女入水自殺」これ迄大きな字で、その横に小さく「未遂」となっていたでしょう。これを抑えたのが「菅虎雄」だったと伝えられています。勿論彼一人ではなく市内報道機関に顔の利く人が中に入り、その手先は、一斉に熊本の報道機関を廻り、遂に一行の記事にもなっていません。これに対して漱石が虎雄や地元の有力者にどの様な礼をしたかも彼自身も一行も遺していません。併し31年の短歌の中に一首それらしきものが存在しているのです。それが「柳散る柳散りつつ細る恋」(31年作)柳とは中国ではそちらの方の女性の代名詞となっており、漢詩をやっていた彼はその事を熟知していたでしょうから。それにこの句は同年の末尾の方に輯録されているのです。以後彼は男女関係の機微や人間関係の作品を多く遺していますが、根はこの辺に存るようです。

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