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久留米文学散歩 vol.65

夏目漱石と熊本そして久留米③
文/増原 達也

昭和63年に永田書房が纏めた物で私の研究に関係がある明治29年から同32年の発句を表にしてみました。明治29年四九七句明治30年二六六句明治31年一〇二句明治32年三三〇句となっており、31年発句の少なさが良く判ります。私はこの原因を知りたかったのです。そこで全集物やその他著書で調べてみますと、この年すなわち前年の30年に、実父直克が81歳で死亡、漱石は暮れから正月に掛けて小天温泉へ、そしてその前年だったと思いますが、彼を文学に傾注させた米山保三郎が死亡、この事は「猫」で「空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と墓碑銘に記する場面は、この米山氏の事を書いていると伝えられています。そして31年になって鏡子の悪阻が酷くなり、彼自身も例のノイローゼ気味となっていた様です。そこへ前年、すなわち明治30年暮れに出掛けた「小天温泉」の「卓」(小説では那美)さんとの関係が尾を引いてくるのです。この那美さんですが、「小天温泉」の後「孫文」の秘書となったという説があるのですが、その職ではこれと云った功績が無かったのか、「孫文」自身の小説や伝記にはそれらしい人物は見当たりません。只、新潮社の日本文学アルバムの69頁の左上と右上に小天時代の写真(これは小天の漱石が泊まったと云う部屋にも掛けてあるものと同じ)が、69頁の上部に孫文の第二婦人と一緒に掲載されています。この時卓さんは中国服を着て第二婦人と云われる人は和服の様です。この卓さんと漱石は小天では話が弾み草枕でも、それが感じられる様に書かれ両者が好感を持った事は事実の様で、熊本に帰っても漱石の話や行動にはその影が鏡子には見え、感じられたのでしょう。亦、地元(小天)の人の話では卓さんが漱石を案内して宮本武蔵が五輪書を書いた五百羅漢の洞窟を見学したとも伝えられており、事実その道の過程に五輪の塔と云うのが存るのですが、それが草枕の前段部分に採用されてもいます。

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