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久留米文学散歩 vol.62

筑後川と久留米⑫

文/増原 達也

人の世は移ろい易いのに筑後川の流れは百年一日の如くな表情をしています。天候に左右されて人間が名付けた「災害」を起こす事は何年に一度位はあるにしてもです。それにしても堤防工事やダムの設置等でその数も百年単位で観れば減っているでしょう。早い話が百年を一日の如くに流れていると云う事です。その流れを利用した木材の運搬や米の輸送等も姿を消して久しい。百年も前になるだろうが、筑後川の側に存る久留米市等は「自転車」、「芸者」そして「医者」の町と云われていましたが、昭和30年代後半に「芸者」は消え昭和40年代半ばには「自転車」製造会社とその下請けも姿を消す羽目になっています。そして久留米市の中央に設けた「旭屋」が昭和40年代半ばには「井筒屋」に変わり、平成に入ってその位置に「プラザ」が出来ています。その費用たるやおよそ百六十億円に近いと伝えられ。それでも筑後川の流れの表面は変わっていません。そう云えば「久留米」は「軍都」であり、「太平洋戦争」時には相当多くの兵隊さんが、ここから出征して行ったと伝えられ、多くの戦死者も出しています。その後地へ今度は「自衛隊」と云う「軍隊」と同様の団体が入ってるのです。それが「国際情勢」も存って大きくなる可能性も出ているとか。この川の流れの「水」を利用して「酒」や「米」「農産物」「タイヤ」「靴」等の産業が起こったのは筑後川の流れの歴史から観ると短いものです。

こうして観ると、人間のなす事は気が付かないだけで「人生五十年」が長くして「八十年」単位でものを考えている様です。その単位で人間は「川の流れ」も考えているのかも知れません。併し「川の流れ」は何百年単位か、どうかすると千年に及ぶものなので、筑後川から見れば護岸工事やダム工事等は、流れそのものは「擦り傷」程度の手当にしか過ぎないものの様です。だから筑後川はもっと「利用」してくれ、そして一緒に「遊んで」くれと思って居ると思います。彼が一番喜んだのは「宮入貝」の撲滅だったのではないでしょうか、自分では撲滅出来ませんから。ー終ー

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