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久留米文学散歩 vol.61

筑後川と久留米⑪

文/増原 達也

「筑後」と云う名称が付いたのは可成り古い様です。元々この地方は「筑紫の国」と云っていたのを七世紀(一説では大化の改新頃)と伝えられ、少し下がった文献には「竹志後国」と云うのも遺っている様です。その筑紫の国を筑前と筑後に分け二国に分立したのが初めで、それが現在迄続いています。もう一ツは「神代の時代」すなわち「イザナギ」、「イザナミ」の時代に九州を「筑紫島」と云ったと伝えられる説があり、この時、現在の福岡県辺りを「白日別」と云い大分県辺りを「豊国」、熊本、鹿児島辺りを「建日別」と命名したと云う説が「古事記」に遺っています。

わが国は筑紫の国や白日別

母います国、櫨多き国  青木繁

と云う詩の「白日別」は自分の生まれた「筑後地方」を指した詩と云う事になります。

当時繁の母は、岡山村(八女市)室岡の方に身を寄せており、この地方は櫨の実の収穫で日本一になった事が現在にも伝えられています。これで判る事は、青木繁が「古事記」を読んでいたと云う事です。

亦、彼は古事記の物語を多くの画にもしています。併し、この詩、固有名詞の羅列であり、それが「母さん助けて、母さん助けて」の叫びのように小生には感じられます。併し、母親は彼が死ぬまで会いに行っていません。母子の間に何があったのでしょう。

参考迄ですが、坂本繁二郎の「母の像」の絵の裏に

わがゑかく、ははのしろかみ、ははのみでかくをいしかと、いいしさみしき(わが描く母の白髪母を見てかく老いしかと云いし寂しき)の詩が存ります。

話を元に戻しますと田中吉政が築いた支城は10城と伝えられていますが、小生が数えたのでは九にしかなりませんでした。それを列記してみますと、柳川城、榎津城、城島城、久留米城、赤司城、福島城、黒木城、松延城、鷹尾城、江浦城となり、この柳川城は本城で存り支城ではないからです。

これ等の事については、亦、後日機会が存りましたら書かせて頂きますが、一ツ一ツの城には、その城なりの物語が存り、面白い様です。

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