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久留米文学散歩 vol.57

久留米文学散歩 vol.57

筑後川と久留米⑦

文/増原 達也

筑後川の上流浸しは今でこそ山間の日田市ですが、近世、特に江戸時代中期以降、明治時代が始まる迄は九州の政治、経済、文化の中心であったのです。政治的には西国側の郡代が置かれ幕府の天領であり、経済面では「掛屋」と称される日田商人が活躍、「日田金」の名の付いた資本が多く運用されていました。文化面では日本最大の私塾と云われた『咸宜園』が存在しています。この咸宜園を開いたのが「広瀬淡窓)で、この人は江戸時代後期の儒学者として九州では三本の指に入る学者として名を遺すと共に明治を生む傑物も多く世に送り出しています。他の二名は三浦梅園と帆足万里だと云われています。

扨この日田は元々大友宗麟の支配下にあった様ですが、彼の子義統が朝鮮出兵の際の不始末で当時の天下人豊臣秀吉にこの地区を没収され日田地区は「大閣蔵入地」となっています。早い話秀吉の「直轄地」となったのです、この時(文禄三年・一五九四)、日田と現在の玖珠郡一帯の代官として来たのが宮木長次郎で、この人物が岐阜の長良川に存った「鵜飼」を持ち込み三隅川でも、それを始め、これが現在の「日田の鵜飼」の起こりと伝えられています。だから、日田の鵜飼は四百年以上の歴史を有していることになります。そしてこの人物が日隈山頂城を築き、「隈城」とし城下を隈町としたのです。次に入ったのが、「毛利高政」(慶長元年一五九六)で、この時初めて「壱万石」の大名になっています。そして慶長四年(一六〇〇)に関ヶ原の役で、この毛利は西軍についた為、徳川方に取られその後は一時日田は中津城の黒田如水の支配下に置かれています。この事を歴史書は黒田の「預かり地」としています。但しこの時毛利高政は役後になって徳川方に寝返った為、この辺では歴史書によって少しずつ違った事が遺されています。戦役後同じ大分県内にある「佐伯城」に転封され、再度日田の郡代も兼任する事になっています。兼任とは云え、当時日田は既に二万石の領地となっていたので、毛利氏は可成りの出世だった様です。そう云えば、この佐伯市に「番匠川」と云う三隅川より少し大きい川があります。それにこの地は「ハワイ奇襲作戦」の訓練基地でもあった様です。この佐伯に広瀬淡窓は半年ばかりですが、留学しています。

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