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久留米文学散歩 vol.55

筑後川と久留米⑤
文/増原 達也

その頃の事を考えると今の日本の「食料事情」は大変良くなっている様です。併しこれは大半が輸入物で国産は二〜三割に過ぎません。食料と云えば、この筑後地区は大きな川、大きな平野を有していますが、一六六二年(寛文三年)(この頃世界では、パスカルの数学と物理学が世に出ています。)頃迄は大干魃に悩まされており、これ等が「五庄屋」物語の創となっています。この時の村と庄屋名は
夏梅村庄屋 栗林次兵衛
高田村庄屋 山下助左衛門
清宗村庄屋 本松平右衛門
今竹村庄屋 重富平左右衛門
菅村庄屋  猪山作之丞
で一九十二年(明治四十五年)大石、長野用水の功労者として、この五庄屋は長野水神社の祭神として合祀されています。ではこれで何程増加したかと云うと

1632年   1750〜64年
生葉郡 18520石   32991石
竹野郡 20383石   30331石
他六郡 242833石   245924石

その他野菜等副産物は参入されていない。
となり相当な成果を見せています。
尚、この工事には五名の功労者の他に二名上げる事が出来ます。
それは五庄屋が最初に計画書を持って飛び込んだ郡奉行だった高村権内氏で、彼は庄屋達と協議、それを持って有馬藩の重役連中の処へ行き熱弁を振るうのですが結果は良くなく、この人がこの藩初代から藩主と交際のあった梅林寺の和尚を引き出し、重役会議の議題に載せる事が出来たのです。
次がその重役会議に列席し最初は藩重役の顔色を伺って反対していた普請奉行の丹波頼母です。この工事が始まった際「磔柱」三柱を工事現場に建て百姓、すなわち労働者を威嚇したのは彼です。
併し最後の方は百姓の「本気度」に圧倒され、良き協力者となっています。彼は尾張国丹波郡の生まれで有馬藩に召し抱えられた時は八百石だったと伝えられていますので相当高い土木技術を備えていたものと思われます。この大石堰工事の頃は千五百石取りに出世し藩の重役会議にも出席する身分になっています。

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