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久留米文学散歩 vol.54

筑後川と久留米④

文/増原 達也

昭和40年から45年、もう少し後迄だったかも知れませんが、良く筑後川に釣りに出掛けたものです。バブル景気の最中だったのでしょうか、それでも仕事は順調良く入って来た時期がありました。もう5〜6年前に亡くなられた経営者からは、

「お前を捜すには筑後川側に行った方が早い」

と云われたものです。

当時何を釣ったかと云えば、殆んど「ヘラ鮒」でした。そう、時には鯉や鯰も釣れたのですが、これは2〜3度でした。ヘラ鮒の次に多いのは真鮒ですが、これはヘラ鮒と違い「引き」は強かったように記憶しています。ヘラ鮒とて鮒には違いはないのですが、真鮒の方が色が全体的に黒く胸囲?が大きい様です。両方共に鮒ではあるのですが、ヘラ鮒の方は「雄」は居なく違う魚の精子で「卵」を孵化するらしいのです。この真鮒の学名はギンブナですが、ヘラ鮒の方は、そのままヘラ鮒のようです。

私が釣りを始めたのは戦争(大東亜戦争)も終盤になって空襲が激しくなってからです。疎開先には「池」も存り、鯉も鮒も居たのですが、これは祭事用で普段は口にする事は出来ませんでした。その上疎開児童に池の魚を食べさせてくれる民家は無かったのです。大きな家になると居間の下まで池になっており一メートルクラスの鯉が泳いでいますた。炊事の排水が流れ込む様になっているのですが、しかし柿の渋とか栗の渋は流れ込まないように嫁さんが気を付けていると耳にした事が存ります。戦後直ぐ市内の方に出たのですが、当時は糸も竿も存りませんから、その辺の棒切れに糸を付け、ほんの先の方だけ「釣糸」を使用したのを覚えています。それでも当時魚も食糧難だったのか良く釣れました。当時の市内では時に死体も流れて来た時代です。勿論、魚は生で食べたことはありませんが、とても現代では口に入れる様な物たったとは思われません。その頃釣ったのはシビンタやウグイそして鮒ではなかったでしょうか。

つづく

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