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筑後川と久留米③

久留米文学散歩 vol.53

筑後川と久留米③

文/増原 達也

この筑後川は上流に「日田」が存り、そこは木材の産地で存る事は良く知られています。特に杉が主流なのですが、この日田は山地で存る為、どうしても斜面に杉を植える事になり、これが生長するに従って杉が空に真っすぐ伸び様とするので根に近い部分が曲がると云う事らしいのです。ですからこの部分を切り落とし直材を筏にして流し、現在の久留米市瀬の下辺りまで運んでいた様です。この切り落とした部分を捨てず「下駄」にしたそうで、これが「日田下駄」の発祥と伝えられています。この杉の苗ですが一年や二年で「物」に成るものではないのです。小さい杉を植えた当時は、その間に「そば」の種を撒き、それが成長したのを食したり売って日銭にしていた様です。そしてこの筏は舟にもして運んでいた様です。

「蓆帆の早瀬を上る霰かな」

漱石(明治32年)

この明治30年と明治32年に彼が詠んだ句には「筑後川」らしい情景が多く出て来ます。

これは私の説ですが、彼が作品としている「草枕」十三章は明治30年3月に来久した際の舟旅行、と云いますから「川下り」は、この時の情景だと思われます。少し亦横道にそれますが、この「草枕」を書いた事が、当時の「朝日新聞」の社主を動かし、彼の人生も大きく変わる事に成っています。

日田杉は相当安く買い叩かれていたのか、その上に人を乗せて運賃を稼がねばならない状態だった様です。その上、明治時代の資料を覧ますと久留米に入って「小森野」と「瀬の下」の舟着場では、「三匁」の「川の使用料」を御上から徴収されていた様です。「川の門註処」の様なものがあったのでしょうか。それでもこの「川」がなければ「筑後の酒」も繁栄しなかったかも知れません。当時の大量輸送は、この様な舟に頼っていたのですから。考えてみると「馬車」や「人力車」で木材や米を運んでも「量」はしれています。製品になっても同じ事でしょう。

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