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久留米文学散歩 vol.18 檀一雄編④

檀一雄編④

文/増原 達也

bungaku2014y6g.jpg 扨。檀一雄の実母本戸トミ(明治26年4月生)の家系ですが、トミ自身や一雄の友人が書き遺しているものでは、彼女の先祖は天草下島の城主であったが、「天草の乱」で同城が落城、その際久留米に落ちのびて、有馬藩に召しかかえられた、と云う事になっておりますが、少し違っているようです。

本戸家が遺された資料に出て来るのは、1673年(霊元天皇)延宝元年です。この時は肥前島原藩(本戸彦衛門)に仕えていますが、同藩が改易になり、浪人、茶師として身を立てていたようです。以後有馬藩とは、記載はありませんが、浪人後、善導寺に住み、鵜川才衛門の仲介で寛文八年頃に茶師として拾二石三人扶で就職しています。この人物は元禄四年頃に久留米で病死していますから、有馬藩に召しかかえられていた事は推察されます。以後五〜六代に亘って仕官しているのですが、嘉永五年頃に本戸記蔵(改喜左衛門)で、それ以降は、資料にはありません。このときの禄高は二百三十石となり、同三月十九日に御小性。同九月十日御小性と御馬廻組を差許、となって、それ以後の資料は現在の処、見つかっておりません。 「天草の乱」は1598年で「島原の乱」は1637年ですから、伝えられる「天草の乱」で「若君」が有馬藩に召しかかえられたのとは、年代が違いすぎているようです。

bungaku2014y6g2.jpg  参考迄です。「天草の乱」では城主天草伊豆守一族は、加藤清正に依り全員惨殺された事が記録に遺り、亦当時の宣教師も、その要に書き遺しています。但し天草城を攻めたのは加藤清正と小西行長であり、加藤の方は七百名を惨殺していますが、小西行長の方は全員開放、戦斗中の戦死者以外は一人も殺していないと伝えられています。理由は行長が当時からキリスト信者であった事としてあります。亦「島原の乱」の際は三萬八千人を惨殺、この死体をバラバラにして政府軍は二ヶ所に埋めています。訳は「キリストは復活する」から、と伝えられているのが理由のようです。

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