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ひろしじいちゃんの 子どもの為の絵ごころ指南!! Archive

子どもの為の洋ひろしじいちゃんの絵ごころ指南!! Vol.8

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山

「塗る」と「描く」の違い

「塗る」という漢字は「手偏」ではない。「描く」は「手偏」である。
「絵を描く」とはいうが、「絵を塗る」とはいわない。
ところが、多くの幼稚園・保育園では「塗る」と「描く」との違いを厳格に使い分けていないように私には思える。
「画用紙の白いところを塗りつぶしなさい」と指導している園が多いようだ。
各園は「自由画帳」を用意している。それらに描かれている幼児の絵は大方描線のみのことが多い。もしその「自由画帳」にすら「塗り絵」的作品を発見されたときには、保護者の方は「うちの子の絵はこれでいいのか」と質問されるがいいと思う。
「絵のコンクール」などの幼児の応募作品には「塗りつぶさせた」ものが多い。
いままで、繰り返し述べて来たように「塗り絵」は幼・小年期の絵画活動の最大の敵である。
しかしそれを強要しているのが大人であり、まして教育・福祉機関であるとすれば幼児、児童は被害者でありそれらの施設は加害者的存在ということになる。
その被害者(上の右の作品)が回復し、左の作品「雨降り」を描けるようになるまでに三年かかった。
この作品も「描く」ことにまず自信を持たせるために、鉛筆の使用を禁じ、黒のクレパスのみの描線指導から始めた。
やがて黒色との混色をS君は気にすることは無くなった。
真ん中にまず自己主張としてS君自身を描き、その前後の友人の存在や道や通学路に建つ家を黒の描線で一気に描いた。
ここにはすでに「塗り絵」の影響は皆無。経験を思い出した自信のある作品になって、すでに自分のおかれている環境に目が注がれている。
S君は読書も大好きになった。
読書と絵画が身についた思春期の同君の将来を楽しみにしている。

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▲【S君 保育園年中組作品】

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▲【S君 小二年時作品】
「全日本こども美術展」受賞

子どもの為のひろしじいちゃんの絵ごころ指南!! Vol.7

子どもの絵 六ツ門教室

主宰 杉山 洋

「動物園のキリン」

幼稚園の恒例の動物園見学の経験絵である。

前々回のK君の「イルカの曲芸見学」絵と同じように、幼児は大地に立っているという経験を画用紙のまわり縁を大地としてとらえている。

このキリンを見ている子らの大地は画用紙下部と左側面である。右下の人物は「A君」自身であるから、無意識に大きく自己主張して描いている。左側面に一見、横たおしの子どもたちは、クラスの友人である。友人たちは大地の存在は経験として知っているが、物理的に間違っているという認識はない。キリンをとりまいて見ているという経験を表現するばかりである。彼らの上には青い空があるのでそれを、まず描き、キリンの上空の空も知っているのでそれを描き、またキリンの足下の大地は画用紙下部がそれである。そこで「キリンのまわりに何があるか」と尋ねてみた。A君にとって、見学した唯一つの動物、首の長いキリンへの驚きのみが経験認識であり、動物の牧舎などは眼中になかったので描けないのである。そこで「キリンや君の回りには何があると思う?」と質問したときA君はやにわにウデを振りまわし「風がある」と答えた。つぎに「その風を描いてみよう」と言うと一瞬、考えてやにわに白を選んで空気として表現したのであった。

眼に見えない空気に気づき、白で表現したA君は、すべてが描き終えたとして、極めて満足顔だった。

このA君は、学年が進むとともに、物のあり方に注意深くなり、次第に写生力が身につき、六年時には左のような作品を描くようになった。

くりかえす。幼児期は「知っている」つまり「経験」を描く時期であり、「写生」の時期ではないことを私は主張する。活発な児童ほど、経験が豊富でダイナミックな表現ができるのである。

201811-sugiyama01.jpg◀【A君 幼稚園児作品】


201811-sugiyama02.jpg◀【A君 小六年時作品】

ともに「全日本こども美術展」受賞

子どもの為の ひろしじいちゃんの 絵ごころ指南!! Vol.6

子どもの絵 六ツ門教室

主宰 杉山 洋

「屋根瓦の美」

久留米ユネスコ協会展で最高賞を受賞した小学六年生上田青永君の夏休みの宿題提出作品。

『村のお宮』の屋根瓦を題材に選んだところがすでに非凡。しかもそれを審査し、最高賞に選んだ審査員の眼も非凡。芸術家を自認して●●会とかいう洋画団体の会員に審査を任せていない主宰団体も非凡。審査員は小学校の美術担当だった元教師とか。画家ではない。教師だった。このユネスコ協会の叡智にほれ込んで、毎年我が塾生を応募させている。

こどもの絵は「芸術ではない」と言った恩師の坂本繁二郎の言葉をつくづく思わせる作品である。この作品には思春期間近の『芸術とはなんぞや』という気持ちがモヤモヤと現れ始めたころの作品である。つまり「こどもの美術教育」の最終段階の作品と言っていい。

恩師坂本繁二郎は大正デモクラシーの世相のなか「芸術自由協会」の参加会員となり、こどもの恵のありようについて、「こどもの絵は芸術ではない」という言葉を残している。

作者上田青永君は高校時代に、作家三島由紀夫に傾倒して慶応を出たはず。この作品を残した青年上田君の社会人としての人となりが推察される。画塾の主宰者にとってはこの上なくなつかしくうれしい作品である。

この作品で『蝋画』という作画技術を指導した。十年前の中学校の美術教科書には記載されていた技法だったが、いまそれも消えたようだ。

いま中学校での美術教育は明朝・ゴシックなどの文字の描法が殆ど。美術教育の時間も少なく不徹底。明朝のほかに宋朝という書体があること担当教師はご存じか。音楽もしかり。大の大人がすべて「可愛い」としか言語表現できない哀れさは、それらの教育現場に原因があるのではないか。この『瓦』の美に気づいた小学六年生の存在を懐かしむだけであってはあるまい。「中教審とやらの国家機関と芸術教育現場を相手に闘いを続けねば」と思っている。

201810-sugiyama.jpg◀【上田青永君 小六年作品】

ひろしじいちゃんの子どもの為の 絵ごころ指南!! Vol.5

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山 洋

「想像と写生」

右の絵は、N君の一年生のときの作品。初めての「イルカの曲芸見学」の楽しい感動がこの絵には満ちている。鉛筆使用を禁じてクレパスの黒のみの描線にのち着色させた。鉛筆での下書きではないので訂正は不可能。この年齢時の特有の、描いては消すの繰り返しがおのずから出来ない。そのために黒の描線が顔や衣類に適当に混色してダイナミックな絵になった。混色は失敗の結果という誤りから解放するための指導である。やがてそこに絵を描く自信も生まれる。
画面の左や上からの見学する友人の描写を写生の誤りと指摘してはいけない。足下の大地の存在はこの年齢にとっては無意識の安全経験。だから「イルカの曲芸」を見て楽しんでいる自分・友人の立ち姿の想像主張には、大地の存在が必要。左の友人の大地は画用紙左側面。向こうの友人の大地は画用紙の上の側面である。この表現は絶対に誤りではない。これらの友人の存在を思い出して描いたものだから。人物描写が写生的ではない。彼らの存在表現があるからこそ、「イルカの曲芸見学」が学校行事であったことの主張が表現出来ている。画面右下の人物はN君自身の無意識の自己主張である。他の人物より大きいのはそのため。
左の作品はN君が六年生のときの「自分の靴」を描かせたもの。靴の置かれた環境が巧みに正確に描写されている。「なじみ深い靴」に対する愛情さえ見る者に感じさせるのは作者が良き思春期になりつつあるからだ。靴の置かれている周囲の写生力の迫力は、低学年の「イルカの曲芸見学」に写生を求めなかったからである。
くりかえす。幼児・低学年期は自分の経験を思い出して描くもの。写生は出来ない。出来ないことを無理強いしたら嫌いになる。進学し知力体力が整ってきたとき、おのずから写生力が身につき、やがて芸術的表現意欲が生まれる。

《ともに全日本こども美術展受賞》

▶【N君 小六年作品】
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▶【N君 小一年作品】
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ひろしじいちゃんの 子どもの為の絵ごころ指南!! Vol.4

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山 洋
「子どもの絵に芸術を求めてはいけない その2」

幼児期は主観的に絵を描き、客観的には描かない。いや描けないことをこの欄でしばしば述べた。上の右のS君の絵は小一年のとき。動物園で見た「フクロウ」の絵である。初めて見た「フクロウ」の眼の大きさに驚いた経験が主観的に表現されている。右に立つ人物が自分で、左の人物は友人。驚いた自分の経験を描いたのだから、おのずから自分を大きく描いている。左右の子どもの大小を客観的に比較してはならない。左の作品は同じS君の小四年の「クジャク」の絵。体力、知力ともに充分に発達して、この時期の適当な客観性が身につき始めている。「クジャク」という不気味は鳥がその翼の色彩に表現されてはいるが、写生力は未熟だ。しかし防御柵の向こうの友人たちの存在により、動物園見学時という社会性を無意識に表現している。「何時・どこで・誰が・何をした」という客観的ものの見方が始まりつつある良い絵である。繰り返します。幼児期の「塗り絵」はその将来の客観的知性を失わせると思ってください。

▶【S君 小四年作品】
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▶【S君 小一年作品】
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ひろしじいちゃんの 子どもの為の絵ごころ指南!! Vol.3

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山 洋
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「子どもの絵に芸術を求めてはいけない」

これは恩師坂本繁二郎先生のお言葉です。画家になるためだけの画塾であってはならないとの教えです。この理念のもとに私は子どもの絵の指導を約六十五年間、久留米・八女で千余人のお子さんを相手に実践してきました。左の作品はS君の幼稚園・小六年時のものです。ここには幼児期の経験の主観的表現が高学年の客観的写生に順調に移行していることを見ることができます。いまS君は、中学校のブラスバンドで大活躍中です。思春期に美術から音楽に転じたことを、美術教育者として私はこの上なく喜んでいます。美術教育は総合的教育の一分野であることを示してくれたからです。「杉山子どもの絵の教室」は、子どもの美術活動は教育の一分野として重要であることを主張しつづけています。

【S君 幼稚園時作品】

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【S君 小六年時作品】
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ひろしじいちゃんの子どもの為の 絵ごころ指南!! Vol.2

子どもの絵 六ツ門教室
主宰 杉山 洋

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幼児期は、一般的にものの見方とか感じ方は、きわめて自己中心的であり、客観性を欠くものです。これは幼児期の特性であり、4・5歳になってもこの傾向は強いのです。
ある幼稚園の先生が西瓜を半分に割って、それを写生させようとしたことがありました。私はそれにストップをかけ、園児の数に合わせて切り割り、その西瓜を食べさせ、そのタネの「吹き飛ばしくらべ」をさせました。
ダラダラと果汁をたらしながら、園児は歓声をあげながらタネを吹き飛ばしました。「吹きとばしくらべ」終了直後、時間をおかずにその「吹きとばしくらべ」を描かせました。
左上の絵がその時のものです。
画面いっぱいに吹き飛んだタネの数や、身体の存在の客観性を求めてはいけません。園児のうれしさ、楽しさの経験が生々しく主観的に表現されていることを褒めてやって下さい。
この絵には幼児の声がみなぎってるではありませんか!
小学校に進学するとともに、次第にお子さんには客観性が備わります。美術教育では、「写生」の時期が次第に始まります。モノ、ヒト、生活、戸外等の有様を客観的に表現するようになります。幼児期は客観的に表現できぬ時期なのです。
まもなく「父の日」がやって来ます。園児のお子さんにお父さんの顔を触らせて、鼻やあごの下のヒゲのそり跡のザラザラを撫でさせてやって下さい。皮膚感覚ほど主観性を強めるものはありません。「父の日」の最高のプレゼント、「わたしのお父さん」の素晴らしい絵ができるはずです。
幼児期の絵に客観性を求めてはいけません。まだその時期ではないことを知って下さい。出来ないことを求めると、お子さんは絵画活動が嫌いになります。

ひろしじいちゃんの 子どもの為の絵ごころ指南!! Vol.1

子どもの絵 六ツ門教室 主宰 杉山 洋
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20180508sugiyamae1.jpg「子どもの絵の指導」の最大の敵は「塗り絵」です。
「幼いお子さん」に市販の「塗り絵」を与え、画面全部が色で埋められたとき、「ああ、よく塗れた。よく出来た」とお子さんを褒められたことはありませんか。
右の五歳の幼児の「お母さん」の絵には余白がありません。完全な「塗り絵」です。「お母さん」ではない「お人形さん」を描いたものです。この絵には血の通った世界で独りだけのお母さんの姿がありません。
人形のまわりの黄緑の色は何を意味しているのでしょうか。おそらくお母さんが「白く残っている、まわりを黄緑で塗りなさい」と指示したに違いありません。
お母さんがいつもこんなドレスを着てウインクしているのでしょうか。まわりが黄緑の色の世界にいるのでしょうか。すべてがウソで固められています。血の通っている、世界で唯ひとりの母の像がこの絵にはありません。
お子さんは「人形」のまわりを空白のまま残していたに違いありません。それを未完成と思ったお母さんは、思いつきの黄緑で塗りつぶさせたのです。それがウソの始まりです。
このまま幼児期を過ごしたお子さんは、小学四年生ころ、目で見て描く「写生」が苦手になり、ひいては人生でもっとも大事な思春期に「美術」とは無縁になるでしょう。
左の絵は世界で唯ひとりの自分のお母さんを描いています。大きな口を開けてゴシゴシと歯を磨くお母さんは健康そのもの。茶色の血の通った顔や、でっかい白い歯がそれを表現しています。まわりの時代色の残った壁には黄色のタオルがさがっています。うがい用のコップには水が満杯。「歯ブラシ」を持つ手首に力がこもっており、ところどころに残った空白は塗り絵ではない証拠。幼児期の絵に必然的に生じる空白なのです。
空白の無い無意味な黄緑のべた塗り絵のウソより、はるかに勝る幼児期絵の真実がここにあります。

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