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久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.83

怪火⑨
文/増原 達也

もう50年以上も前のことですが、母方の墓地を、祖母が生きている内に「寄せ墓」にしようと云う事になり、私も呼び出され手伝わされました。その日は大変寒い日で、私は出て行くのが億劫だったのですが、金銭的に可成りな支援を当時受けていましたので、寒空を押して出掛けたのです。その墓地は実家の裏山の頂上に近い、草むらと竹薮を通った処に存ったのです。私が着いた時には作業は可成り進んでおり、墓地の中央には大きな穴が掘ってあり、その側で若院家が穴に向かって経を誦えている処でした。その大きな穴の中に墓石が既に多数入れられており、今度は墓石のない土の盛り上がった処に隠坊さんが長さ1米、直経1センチ程の鉄棒を押し込んでいる処でした。そしてどの様な手応えがあるのか、私に「坊ちゃん、ここを掘って下さい。手荒にすると瓶が崩れますから、回りから静かに」と注意をされた事だけは記憶しています。もう50年以上も前の事ですので、細かい事は忘れましたが、土の中から瓶が出て来て、その中にきれいな水が半分程有り、それに長い髪毛が多数浮いているのを記憶しています。「これが人間です。瓶だから遺ったのですが、木材ではそうはいきません。」と云った風な事を私に教えてくれました。その瓶の中には髪毛と一緒に昔の裁縫道具の様な物が底に沈澱して出て来ました。木で作った棺桶等では土の色が若干変わっている位で素人の私には、そこに人間が埋葬されているなど全然判りません。併し、陰坊さんと云われる人は、その位置の土を別に用意してあるトタンの上で炒るのです。そしてその土の中から骨らしい物を彼等は見い出すのです。素人の私には全然判りませんが、その土と骨とを一緒に大きな穴の中に入れるのですが、撒き入れると云った方が良いかも知れません。そのトタンですが、現在市販されている物と同じだった様に記憶しています。

久留米文学散歩 vol.82

怪火⑧
文/増原 達也

文章が横道に逸れましたが、その頃から、その関係の著書も少しは読む様になりました。そして私だけでなく多くの人が「狐火」を観ており、書き遺している事も知りましたが、確実な裏付けの存る物には出会っていません。只一ツ大槻義彦氏の「火の玉」現象を理論付けた物は少し調べてみました。併しこの「火の玉」は、電磁波の一種だと云う事位で「狐火」とは大きく違う事に気が付きました。この人は昭和十一年生まれで「東京教育大学」を卒業後、東京大学の大学院物理学科に進学、そこでも一人で「火の玉」の研究をして、その結果「火の玉」は電磁波の作用である事を突き止め、実験にも成功しているのですが、その前、すなわち、人体から電磁波が発生する事に付いては至極曖昧になっている気がしました。この「火の玉」理論は昭和五十一年四月号の「科学朝日」が取り上げてもいますが、それ迄で、以降マスコミでも騒がれなくなり、現在はその道の研究者も居ない様です。忘れる処でしたが微粒子とは10μ(ミュー)m以下を云います。話しを難しくして誤魔化そうとしているのでは存りません。あの広い海の上を風が通った際、海と風、気圧と温度には差があります。常識的に考えて風の温度の方が高く気圧が低い事は当然考えられます。すると目に見えない海水の微粒子が風に乗って流れる事は当然と考えられます。台風は基本的には気圧が低いから起こるのですが、この時海面は上昇します。これが大潮となる原因の一ツです。もう一つは月の引力です。その時空気中に、すなわち大気に海水の塩分を含む微粒子が風(空気の流れ)に乗って陸地に来る事は当然です。昨年は、この現象が多く起こっています。風の道も出来るでしょう。陸地では、土砂の上や植物の葉の上を撫でる様に、移動しますので、現在我々が呼吸している空気は物凄い数の混合物になっています。それに自動車の排出するタール分や化学工場から排出される微粒子が混じるのです。ここまで来れば、「混合物」とは云っておれなく「科学変化」を起こした他の微粒子に成っている事も考えられます。これらをその道の学者は「エアロゾル」と云っている様です。

久留米文学散歩 vol.81

怪火⑦
文/増原 達也

この青木繁は勿論久留米市の出身で洋画家ですが、若くして死亡、苦節の生涯を送っています。彼自身は現久留米市の前身有馬藩の下級武士の末裔で早くから絵を描く事に長けており、天才の名を欲しいままにしていた様です。その事が彼自身にはマイナスになり、彼を外国に行って、画法を学ぶ機会の芽を潰している様です。この性格が生みの母親までも敵に回す事になり、彼自身が福岡市の医院で死亡した際も、遂に母親は彼の側には来ていません。ですから死後の後始末も妹が仕切っています。一方の坂本繁二郎は一九二一年(大正十年)にはパリに絵画の勉強に旅立っています。これには支援者が多数現れ、その人達に絵を買って貰い渡仏費用に当てています。パリの生活は三年間なのですが、この間に青木繁とは技術的にも人間的にも差が出来ています。坂本繁二郎の絵はフランスに行く前と帰国後では大きく変化しています。渡仏前の作品には写生的な精緻さが目立っていましたが、帰国後はターナー的な筆遣いが目立つ様になり、ターナーとプロットも同じ物まで出ています。このターナーは夏目漱石も「坊ちゃん」の中で彼を一度取り上げています。対する青木繁は渡英か渡仏をしたかったのですが、支援者がない上に自身から世間を敵に廻す発言等もあったと思われます。それが「海の幸」に出てくる女性の顔です。このタッチはミレー(英国)が描いた女性のプロットを、三人(全員身内)を重ねて描いた合作で、それを彼が絵にした人物像のようです。彼の「海の幸」は、彼の作品の中で唯一目が生きている物として貴重な作品と思われます。もう十年以上も前ですが、青木繁の作品展が石橋文化センター(久留米)で催された事があります。その時、肖像画の多い(十作品以上)のに驚いた事と同じに、その人物の目が全員同じだった事が強く印象に残っています。人間の目は、その人の内面を現す唯一のものです。だから描き方に依りその絵が生きるも死ぬも、それに掛かっていると云われています。この作品展の展示品の前に円山応挙の「雄松」(襖絵二枚)が展示されていたので彼(青木繁)の絵を観る目に影響したのかも知れません。

久留米文学散歩 vol.80

怪火⑥

文/増原 達也

「父さん、何かあったの?」下の叔母が家に入ると、囲炉裏を前に箱膳を横に座っている祖父に盾問を浴びせていました。「何かて、何がだ…」と祖父は不思議な顔で応じていました。すると、弟を寝かせて戻って来た祖母が、「この子達が狐火を遠くから観たと云うとるが……」この辺の会話の順序は良く記憶していませんが、祖母は明かりを観た事を伝えていたのです。それに対して祖父は、「近頃狐が出ると云う話は耳にしとる。それに家も、ここ二〜三日は毎日の様に鶏を一羽ずつやられとるが…」と、そんな会話だったと思います。そんな事が小学校三年生の頭の中に記憶として残り以後、狐は遠くから観ると、「灯」に観えるものと私の頭の中では忘れられぬものになったのです。本当は何であったか80も半ばになった現在でも不明ですが。只、直線で数百メートル先に「かがり火」が10ばかり、右から左へ移動した事だけは、確かなのです。只、科学や化学が、これだけ発達した現在では、他人に話すことではないので、私の胸に納めていました。そんな事が存った為でしょうか、浅井忠の「狐の嫁入り」の絵は早くから気に掛けて観る事になぅた様です。あの絵は、狐の列や持ち物が影として描かれたバックに色を添えてありますが、狐の動きには躍動感が存り狐や持ち物に色を感じさせています。この人は本来油彩画家なのですが、この絵一枚が水彩画として遺されています。そしてプロット(構成)を青木繁が真似て描いたのが、「海の幸」だという説が存ります。もう一つは魚の水切りを観たのは坂本繁二郎の方で、それを一緒に旅行していた青木繁に話し、あの作品が生まれたと云う説も存ります。この二つの画を観比べてみますと「浅井忠」の精緻さがよく理解できます。一方、青木繁の筆の荒さが目に付きます。もう忘れましたが、この二枚を大きくカラー写真にして某新聞が発表した事があったのですが、その際も評には青木繁が浅井忠のプロットを真似た様な事が書いてあったと記憶しています。 -つづく-

久留米文学散歩 vol.79

怪火⑤
文/増原 達也

どれ程の時間を要したかは忘れましたが、山の中を歩けど歩けど人家が無かった事は子供心に憶えています。元々が中国山脈で標高が高くなっている地区ですから、山の尾根に近い処を歩く様なものです。女三人にどの様な会話であったかは、知る由もないのですが、最後の峠を越えて実家の集落が展望できる処に来た時、「姉さん、あれ葬式の灯りじゃないの」と、下の叔母が母に告げました。私は母姉妹に手を引かれて歩き通していましたので、その方向に直ぐ目が行きました。そうですローソクの火の部分だけが10ばかり母の実家のある処の上から下へと「ふらふら」と進んでいくのです。決して輝くと云った光ではなく「橙」色の色紙を切り取って並べて下へ進めているようでした。それが母の実家の角迄来ると、まるで角を曲がって物陰に隠れる如く、次々に消えて仕舞ったのです。記憶には全く存りませんが、姉妹三人で「あれは葬儀よ」とか、「誰かの結婚式なのかしら」「いや葬式じゃないの、誰か病気の人、居たかね」と三人姉妹は姦しい事でしたが。「あら、家の角で消えていくわ」灯りが消えて仕舞ったのは、どれ程の時間だったか、二分だったのか10秒か、20秒位だったのか、長くてもそんなものだったでしょう。この光は不通の光と違い光子の作用が余りありませんでした。則ち輝きがないのです。橙色の折り紙でローソクの行燈を造り、それを並べて進めている様にも観えました。そんな、こんなで母方の実家に着いたのですが、この寒いのに祖母はある程度の処まで迎えに来ており、母が背負っていた弟を取り上げていました。今考えるとどの様にして祖母と連絡を取ったのか不思議です。「寒かったろう・・・」と云いながら、自分が肩に掛けていたボロ切れを継ぎ足して造った防寒着の様な物で弟を包み受け取っていました。「母さん、葬儀か結婚式か何かあったの」と、下の叔母が早速尋ねていました。「いや、何もないが」と応えたまま、そそくさと家の方へ歩いて行きました。 -つづく-

久留米文学散歩 vol.78

怪火④
文/増原 達也

忘れる処でしたが、当時海軍将校が腰にしている短剣ですが、あれは「斬れなく飾りだ」と、もっともらしく世間では流布されている様ですが、若しそれが本当だとすれば終戦真前で将校に任官人達の物ではなかったのでは無いでしょうか。何故なら父の短剣は「リンゴ」の皮をむき割箸で爪楊枝をつくって、父が家族全員に渡していた記憶があるからです。その時割箸を削る動作は、その短剣がよく切れる動作だったと記憶しているからです。正直な処、こんな事どうでも良いのですが、それが気になって何かの機会に発表したかったのです。切れないと云えば当時将校に任官すれば短剣の外に式刀(指揮刀)もあるのですが、これは刃の部分が潰して存り最初から切れなくしてありました。只昭和十九年頃から将校も一般の兵士も使い捨て時代となっていますので、式刀まで渡したかどうか不明です。これは戦地には持ってゆきませんでしたのですが、残された私達は引っ越しに引っ越しを重ねましたので、どっかに忘れて来た様で現在は手元にありません。もう当時の式刀(指揮刀)等知っている人も少なくなっているのでしょう。只私達家族が戦前に撮った写真が存るのですが、父はその刀を持って映っているので、その写真は残しています。父を送った後、母方の実家の方に行くのですが、これも汽車を二ツ乗りついで呉から五時間以上なのです。これは、乗り継ぎが順調にいった時間で、当時はすでに列車も数が少なくなっており、実家の最寄りの駅に着いたのは、すでにバス(路線バス)の便は無くなっていました。そう、この時期はすでにバスは「木炭車」でした。そこから普通の道路を歩くと四〜五里と云う処ですが、そこは地元で育った「女三人姉妹」です。誰が云い出したが、「山越えで帰ろう」と云う事になり、山越え近道を歩く事になったのです。現在地図を観ますと近道、すなわち「山越え」で「三里」の道のりを女三人が二人の子供連れで歩く事になったのです。
-つづく-

久留米文学散歩 vol.77

怪火③
文/増原 達也

そして十八年ニ月末頃か3月初旬に呉の港から戦地に向けて出発しました。忘れておりましたが、私は父の任地の街で幼稚園にいっています。その街では幼稚園はニヶ処しかなく、それも小学校の中に設置されていました。その時の写真も現在手元にあります。それには昭和十三年と記されていますので、太平洋戦争が勃発する三年前と云う事になります。そして多分、父が航空隊を設りに呉から任地に行く時も呉の駅から汽車で行ったと思います。何故ならば、その時、私は呉の駅構内で自動販売器で「キャラメル」だか「チョコレート」を買った記憶があるからです。その自動販売器は今のと殆ど変わりなかったと思います。只、現在の様な派手さはなかったと思います。処が父が戦地に征くようになって呉の駅に自動販売器は存ったのですが、商品は既に出なくなっていました。その時何故出ないのかと、父に尋ねた記憶も存ります。併し、父は良い返事はしませんでした。それだけは鮮明に遺っています。当時、軍港には余り近く迄は行けませんしたので艦に乗る処は見ていません。只、母方ニ人の母の妹と父方の兄弟だか親類の若い人が二〜三人お見えになっていたのは憶えています。その時、「青江(刀)と爪は蝋漬けにするから」と父の兄が父に話しているのが耳に遺っています。当時その意味は分からなかったからです。青江と云うのは刀で、備前青江でニ振り(大・小赤鞘)の事だったのですが、これは父の戦死の公報後、葬儀の時まで、そのまま父の実家にあった様です。それを蝋漬けにして墓に埋めたのは、戦後、それも占領軍の取締りが厳しくなると噂が広まっての事であった様です。刀で思い出しましたが、戦地に征くことが決まってから父が縁側で刀の手入れをしている時、「儂が、こんな物を、振り回す様では・・・」と母と話している処が記憶に遺っています。その刀が青江だったか、どうかは記憶に存りませんが、戦地に征く時、友人達から刀を一振だか、二振だかを頂いた様です。青江以外の刀が、どうなったかは知りません。

久留米文学散歩 vol.76

怪火(あやしび)②
文/増原 達也

只父は、「この戦争は長くなるから、誰もが一度は征かねばならぬだろうから・・・」と応えていたようです。そんな会話の中で父は、「戦線を延ばしすぎた様だ」と気の置ける友人には話していたと、後日母が私に話してくれました。すると友人は「憲兵が飛んでくるぞ。それでなくてもお前は東條に睨まれている組に入っているのだから」と、忠告していたのを母は襖越しに耳にしていた様です。それを後日私に話してくれました。父の話しの概要は、「あすこま(ガダルカナル)で延ばす間には和平の切っ掛けはあった筈だ。戦力等と云うものは、神代(孫子の兵法・実際は孫武の敬称)。春秋時代の人(前七百七十年〜前四百三年頃)の昔から距離の二乗に反比例すると云う事を知らなさすぎる」と結んでいた様です。日本が「ガナルカナル」に上陸した日は忘れましたが、そこを撤退し始めたのは昭和18年2月初旬と記憶に遺っています。一日で撤退が終わってはいないでしょうから、完全に撤退が終わったのは同月、すなわち二月中頃ではなかったでしょうか。同島に上陸して撤退までの期間はそう長くはなかった筈です。それは悲惨な戦いであった様です。この戦いの著書は戦後多く出版されています。その撤退が終わった頃ですから、二月の終わりか三月の初旬に父は呉(広島)から征きました。そう、このガダルカナルに上陸した日本の兵隊は三万人と云われて居ますが、撤退した人員は一万五千人と伝えられていますから、その人数だけが戦死したことになるのですが、戦闘で死亡した人は僅かで、後は病死(餓死と疫病)であったと伝えられていますので、当時日本は相当無理な展開をしたものです。これは余談ですが、ガナルカナルで生き残った兵士達は後のニーギニヤ戦線やインパール作戦に向けられたと伝えられています。 ― つづく ―

久留米文学散歩 vol.75

怪火(あやしび)①
文/増原 達也

それは昭和18年初春の夜の出来事です。何故年月を正確に記憶しているのかと云いますと、昭和16年の12月中旬、日本が「太平洋戦争」に突入、その絶頂期で、以後は坂を下るが如く敗退に敗退を続け、昭和20年8月15日には米軍を中心とする連合軍に降伏、日本国がその管轄下(占領)に置かれる事となったのです。その天下分け目の戦いが「ガダルカナルの戦」でした。この当時、日本の同盟国であったドイツもスターリングラードとコーカサスに向けて新しい攻撃を開始したが、ソ連軍の反撃により同地を包囲していた30万にのぼるドイツ兵が犠牲となり、これがドイツの転換点で、急速に敗色(同年月)を強めてゆくのです。こんな時期、父に召集が来たのです。元々海軍の軍人ではあったので、当然と云えば当然なのですが、入隊以来、当時設立されていた「軍需省」の勤務であった為、戦からは離れていた様です。当時どんな方法で父に通知があったかは知りませんが、或る地方で「海軍航空隊」を設る為、そこの軍需部に派遣されて居た様です。今考えると「航空隊」を設る為の資材調達の責任者だったのでしょう。だからその「軍需部」での軍人は父一人で後は全員一般の職員だった様に子供心に残っています。そこに来る前は、何でも「海軍工廠」(播磨)の方に居たとかで、常に後方を歩いた様です。そう云えば軍需部にいた当時の昭和17年夏ですが、「野球大会」で優勝した記念写真が残っています。勿論この時も全員海軍の服ではありません。その試合を観たのか、父がマウンドに立っている姿は記憶しています。そんな軍人であったので艦に乗る等、とても出来なかったのでしょう。戦地に行く事が内定して以後、同期生だか同年兵だかが毎夜尋ねて来て、「お前は艦隊勤務をした事が無いのだから、一度それをやってからと云う事にしては・・・」とか「お前はリウマチ持ちだから、それが治ってからとの診断書を書いて貰ったら」とか、来宅した人達が口々に助言していたのが、子供心に遺っています。

久留米文学散歩 vol.74

夏目漱石と熊本そして久留米⑫

文/増原 達也

耶馬渓に漱石が行った事は鏡子さんが奥太一郎氏と一緒だった事まで「漱石に思い出」の中に書き遺しています。明治30年には久留米に来て菅虎雄に会っています。そして3月28日には高良山に登り発心公園まで歩いた事は30年4月16日に手紙で正岡子規に知らせます。その文面は、・‥・‥今春期休に久留米に至り高良山に登り夫れより山越えを致し発心と申す処の桜を見物致候帰途久留米の古道具屋にて士朗と淡々の軸を手に入候につき・‥・‥と漱石は書いています。夫れが同年3月27日から28日に掛けての事だった様ですが、この時漱石が虎雄に会いに行ったのは、この両氏の友人である狩野亨吉が虎雄に連絡が取り難くなっていた事を漱石に溢し、それならと、漱石が直接虎雄に会って亨吉との連絡の橋渡しをした格好になっているのです。この時漱石は虎雄に会って亨吉からの用件を伝えたものと思われますが、用件の内容は不明です。丁度その日は久留米地区は雨だったのですが、夕方頃天気が持ち直し明日は晴天になりそうになり、漱石は急遽高良山に行き発心にまで足を伸ばして桜を見物する事を3月27日の夕方に思い立っているようです。この辺の天候については平成6年に気象庁が発表した「百年の気象記録」に依るものです。その道を小生も同時期に2〜3度歩いて、飯田春畦や老松宮を知る事となったのです。そして、この老松宮は祭神が菅原道真であり、この宮の側まで「筑後川」の川幅が存った事まで知りました。現在の川幅になるまでには二度の大きな工事が存り、大正初期の工事後には「堰神社」も造られています。この神社と堤防は元久留米藩主の末裔の方の寄進に依って建立されたと記されています。そして、同所は既に観光地化され、この堰神社が余りにも立派なので、その堤防の下になっている老松宮は判り難くなっています。私が最初その宮を見いだした際は本当に小さく、この老松宮の字も崩して存りましたので、それと知る迄には20〜30年の時が経過して居たと思います。処が現在の神社は立派になり、お宮らしくもなっています。その宮の前から飯田春畦さんの家は観えるのです。現在は同氏から二〜三代目の方が生活されていますが、昭和27年頃迄は同所は医院であったと、その20〜30年前にお伺いした時お話しされ当人はその時、私は養子です、と付け加えておられました。先代は一(はじめ)さんでその前が春畦さんですと家系図で説明されて下さいました。家系図では春畦は十二代目で、一さんは当時の千葉医専の第1期卒業生である事も付け加えられておられました。まだ書き遺したことは多くあるのですが、今回もこれで筆をおきます。

拝殿に花咲き込むや鈴の音(漱石) ー終ー

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