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久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.88

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第二回

豊臣秀吉は公家になりたかった 文/江崎久美子

田中吉政が寄進した梵鐘や鳥居には、公家としての姓、橘朝臣と記されています。また、吉政の娘が、大外記中原師廉に嫁いでいることでも本姓は公家であったと考えます。

娘の嫁ぎ先の中原家は、太政官外記局の首席大外記を歴代務めます。太政官の実務を担当し、中世には、文書の確認、作成……簡単に言えば書記官、日記を家業とした家だったのです。

その中原氏は、豊臣秀吉や、秀次の関白宣下(天皇から位を頂く)の際には、書状を書き示し式典を取り仕切りました。娘が嫁いだ頃の吉政は、今までの資料では何の官職も持たなかったとされてきましたが、娘の位を上げるために公家に養女に出した形跡もないのです。婚姻で、それぞれの家の位を揃えることは普通に決められていました。ちなみに、師廉の前正室が亡くなったので、再婚相手に娘が選ばれたようです。それも、結構な年の差婚のようですよ。

そしてその中原氏が亡くなり、嫡男が職を告げるまでの約二年間、歴史的には珍しく、娘が代行して日記を書いています。その日記の一説に、秀吉の居る城に呼び出され、寧々のお傍に付いてくれないかと言われたとあり、吉政の娘は、息子の教育に忙しいので無理ですと断ったと書いてあります。私はとても驚きました。秀吉に無理って言ったの?

こんなことは、父の吉政と秀吉が親しくなければ言えないことですよね。

秀吉は、公家としての位を持たなかったので、まずは元関白近衛前久の養子になって、やっと官位を得ることができました。これは朝廷の事情に明るかった吉政と中原氏を介して行われたのかもしれないと考えると、彼の今までの出生の謎が紐解かれて行く気がしますね。

吉政のプロフィールは、今まで言われてきたような、百姓から身を起こしたり、名も知れぬ武将ではなかったということがわかります。そろそろ、このような俗説は、打ち消してもよい頃だと思います。

久留米文学散歩 vol.87

田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ 第一回

物語の始まりの如く

文/江崎久美子

初めまして。生まれも育ちも福岡県八女市、福島城下白壁の町家で陶芸カフェをしています。縁あって、田中吉政という江戸時代のお殿様の史談会理事の一人になりました。

遠い昔、私たちの筑後地域は、筑後国と呼ばれていました。

天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉が九州を平定し国分けをした時、筑後国が四つに分けられ、毛利秀包が久留米七万五千石、筑紫広門が山下一万八千石、立花宗茂が柳川十三万二千二百石、高橋直次が江浦一万八千石を拝領しました。

秀吉が亡くなり、慶長六(一六〇〇)年、関ケ原の戦がおこり、西軍の主宰石田三成を捕えた功績を徳川家康に認められ、筑後一国三十二万五千石の国主となったのが田中吉政です。

田中吉政のフルネームは、初代筑後国主田中橘朝臣吉政、官位は従四位下筑後守、兵部大輔です。天正十八(一五四八)年、近江国(現滋賀県)生まれです。橘は、公家の姓で、藤原氏、橘氏、源氏、平氏が公家の代表として「藤橘源平」と呼ばれたりします。

田中家は、後の世継ぎ問題が起こり二代目の忠政で一旦終焉してしまい、長男と三男の家系が、田中家として再興し旗本(中央官僚)、養子の家系は彦根藩士として続きます。

田中家が去った元和六(一六二〇)年の筑後国は、また三つに分けられ、有馬豊氏久留米二十一万石、立花宗茂柳川十万石、高橋種次三池一万石に。それで、後にも先にも、筑後国主という官職は吉政親子だけなので、初代筑後国主だということになります。

吉政の生涯は、謎に包まれていて、その謎多き武将がゆえ、テレビや映画などの物語に、登場させるのに作家が躊躇し出さなく、より表に出てこない現実となっています。

それで、その謎と真実を少しずつ、分かりやすくお伝えしていこうと思います。あなたの俗説は合っていますか?福岡県南部が、一つの国だったころのお話、そして、吉政が、そこまで来た戦国時代のエピソードの数々、江戸時代までの歴史の旅へご案内します。-つづく-

※今月号から新連載「田中吉政公 お慕い申しあげそうろうゆえ」が始まります。

久留米文学散歩 vol.86

怪火⑫

文/増原 達也

紙面の都合上、話を大きく飛ばさせて頂きます。その街に私が来たのは、その街が昭和28年の大水害で大きな被害を出して二〜三年後だったと思います。何故その街に来たのかと云いますと、「牛に引かれて善光寺参り」と云った具合だったのです。何故なら小唄で、「捕吏に捕えられ引かれて行く者」と辞典には解説しているからです。只、一寸違うのは私の場合は「捕吏や警察官」ではなく、女人に連れられて来たのです。いや尻を追いかけて来たのかも知れません。当時、世の中は「戦後から本格的に復興」をしようとする時期でもあったのですが、それが大水害でその街は出端を挫かれた様なものでした。当時街の中央に位置していたデパートには水害二〜三年後であるにも拘わらずその入口には水害の水痕が二メートル近くの位置に「クッキリ」と残っていました。何故私がデパートに行ったかと申しますと、その五階だか六階建のビルの屋上が遊技場となっており、その一角に「アーチェリー」の遊び場が存ったのです。当時大都会では、各処ですでに「アーチェリー」の遊び場は存った様ですが、その街はそこ一ツだけでした。それでも御客さんは少なくデパート側も本気で「アーチェリー」の遊び場に金を掛ける事はしていなかった様でした。それでも私は根気良く通ったものでした。そんなある時、所用で20日ばかり行かれなくなり、20日過ぎて行った時には、すでに外の遊び場に衣更えされていました。そして何れ位の日数だったか忘れましたが、地方の大手百貨店に衣更えをしていました。が間もなく「大店法」が国会を通過、大型スーパーが、その店を囲む様に三〜四店舗出来たのと人間の交通形態が、徐々に変化、最初は二〜三%の売上減を見せていたものが、人の営業努力とかの古来の商慣例ではどうにもならなくなり、遂に準大手もその街から引き揚げざるを得なくなったのです。その土地の上が三度目の大きな変化をせざるを得なくなってゆきました。その街を通過する都市電車の乗降客も集客努力に拘わらず毎年二〜三%ずつは減っていた様です。 -おわり-

久留米文学散歩 vol.85

怪火⑪

文/増原 達也

この時代「木炭自動車」が主力だったのです。母方も「農地改革」(自動農創設特別措置法)で小作に出していたものが、この法律で前にも書いたとおり所有地(田圃)の四分の三を失った上に祖父の死で金銭的にも可成り苦しかった様です。その為か人に勧められて「木炭車」目当ての「炭焼き」すなわち「木炭製造」を創ったのです。併し男手がない為、当時戦地から帰ってこられた人を近所の人の紹介で雇っていた様です。最初の内は良かったのですが、長く続くと、まもなく、その人達(二人)に入金(集金)のあった現金を「ゴッソリ」持って行かれたとかで、これも長くは続かなかった様です。外にも二〜三、それと同じ様な事があり、相当経済的には苦境に入っていたと云われています。それでも戦争中から戦後に掛けて実家を頼ってきた方の(すなわち帰省していた)人数は10人以上に登った程だったのです。それも女と子供ばかりです。私達家族三人もそうですが、そんな時だったと想いますが。祖母が、「どんな事があっても、女が中心になって家を守らねば・・・・・・・」と帰省して来た人達に云ったとか、後日耳にした事があります。それにもう一ツは戦争に負けて、進駐軍が入って来ると同時に世の中が大きく変化すると噂が流れ、日本の婦女子が、どの様に扱われるか判らない時期でもあったのです。「時代が変わっても女のすることは一ツ家族を食べさせる事」と云ったとか。昭和20年の末頃から「ヤミ物資」が動くようになり、これを取締まる為に武装警官が列車等に乗り込んで来て「ヤミ米」等を列車内でも次々に摘発したのも当時の事です。社会主義経済「片山哲社会党首」(昭和22年6月1日)が首相に就いたこともあって物資の統制は一層激しくなった様です。それに米の配給に最初は一人一日当たり二合五勺だったのが日を追うと米はなくなり、代わりに「ジャガイモ」とか、「キザラ」の砂糖が米の代わりに配給になっていました。

久留米文学散歩 vol.84

怪火⑩
文/増原 達也

そのトタンは幅三尺、長さ六尺位で、四方の下を支えているのも松で高さ20センチ程に切ってあり四隅にこれを敷き、その中央で、これも松だったと教えられていますが、燃やしていたのです。そして数行前にも書きましたごとく骨片が見分けがつく様になると、その部分の骨と土を一緒に今度は墓穴に入れると云うより撒いた様に記憶しています。記憶しているのはその辺迄で、その時、どの程度の作業中で私が帰ったかも、すでに記憶にはなくなっています。何でも二〜三日の作業だったと思いますが、その間若院家は、その側で、ずーっと佛教の衣姿でお経を唱えておられました。その御寺は母方では先祖からのもので、それ迄は彼の実父が佛事ごとには出掛けておられたとか、耳にした事がありました。そう、彼が復員してからは檀家廻りは、殆ど彼の仕事になっていた様です。忘れる処でしたが、彼は佛教大学から海軍に入った際は、私の祖父の処に挨拶に来たとか、耳にした事がありました。そして祖父が「坊主が刈り出されるようでは、日本も危ないのかもしれぬ・・・」と云っていたとか、祖母から聞いたことがあります。それでも人が少なくなっていたのか、終戦迄の間に一度祖父は村長にも就いていた様です。今から思えば現在のように選挙ではなかった時代なので、中央からの「官選」だった様です。人の運とは解らぬもので、短い期間でも戦時中、「長」に就いていた為、戦後直ぐに「公職追放」になった上、第一次の「農地改革」で小作に出していた田圃は四分の三を失っています。その時の祖父の落ち込みは酷いものであったと後で耳にしました。この時、何故か山林だけは占領軍は手を付けていません。只祖父の家は田圃は多く所有していた様ですが、山は多くは所有していませんでした。それに所有している山は、ほとんどが雑木林だった様です。戦後暫くして「バス」、「タクシー」等に「木炭車」時代が来た時は、この雑木林が役に立ちバス会社やトラック会社に「木炭」を造って出していた様です。併しこれも昭和27年〜29年頃迄だった様です。併しこの時、祖父はすでに亡くなっていました。

久留米文学散歩 vol.83

怪火⑨
文/増原 達也

もう50年以上も前のことですが、母方の墓地を、祖母が生きている内に「寄せ墓」にしようと云う事になり、私も呼び出され手伝わされました。その日は大変寒い日で、私は出て行くのが億劫だったのですが、金銭的に可成りな支援を当時受けていましたので、寒空を押して出掛けたのです。その墓地は実家の裏山の頂上に近い、草むらと竹薮を通った処に存ったのです。私が着いた時には作業は可成り進んでおり、墓地の中央には大きな穴が掘ってあり、その側で若院家が穴に向かって経を誦えている処でした。その大きな穴の中に墓石が既に多数入れられており、今度は墓石のない土の盛り上がった処に隠坊さんが長さ1米、直経1センチ程の鉄棒を押し込んでいる処でした。そしてどの様な手応えがあるのか、私に「坊ちゃん、ここを掘って下さい。手荒にすると瓶が崩れますから、回りから静かに」と注意をされた事だけは記憶しています。もう50年以上も前の事ですので、細かい事は忘れましたが、土の中から瓶が出て来て、その中にきれいな水が半分程有り、それに長い髪毛が多数浮いているのを記憶しています。「これが人間です。瓶だから遺ったのですが、木材ではそうはいきません。」と云った風な事を私に教えてくれました。その瓶の中には髪毛と一緒に昔の裁縫道具の様な物が底に沈澱して出て来ました。木で作った棺桶等では土の色が若干変わっている位で素人の私には、そこに人間が埋葬されているなど全然判りません。併し、陰坊さんと云われる人は、その位置の土を別に用意してあるトタンの上で炒るのです。そしてその土の中から骨らしい物を彼等は見い出すのです。素人の私には全然判りませんが、その土と骨とを一緒に大きな穴の中に入れるのですが、撒き入れると云った方が良いかも知れません。そのトタンですが、現在市販されている物と同じだった様に記憶しています。

久留米文学散歩 vol.82

怪火⑧
文/増原 達也

文章が横道に逸れましたが、その頃から、その関係の著書も少しは読む様になりました。そして私だけでなく多くの人が「狐火」を観ており、書き遺している事も知りましたが、確実な裏付けの存る物には出会っていません。只一ツ大槻義彦氏の「火の玉」現象を理論付けた物は少し調べてみました。併しこの「火の玉」は、電磁波の一種だと云う事位で「狐火」とは大きく違う事に気が付きました。この人は昭和十一年生まれで「東京教育大学」を卒業後、東京大学の大学院物理学科に進学、そこでも一人で「火の玉」の研究をして、その結果「火の玉」は電磁波の作用である事を突き止め、実験にも成功しているのですが、その前、すなわち、人体から電磁波が発生する事に付いては至極曖昧になっている気がしました。この「火の玉」理論は昭和五十一年四月号の「科学朝日」が取り上げてもいますが、それ迄で、以降マスコミでも騒がれなくなり、現在はその道の研究者も居ない様です。忘れる処でしたが微粒子とは10μ(ミュー)m以下を云います。話しを難しくして誤魔化そうとしているのでは存りません。あの広い海の上を風が通った際、海と風、気圧と温度には差があります。常識的に考えて風の温度の方が高く気圧が低い事は当然考えられます。すると目に見えない海水の微粒子が風に乗って流れる事は当然と考えられます。台風は基本的には気圧が低いから起こるのですが、この時海面は上昇します。これが大潮となる原因の一ツです。もう一つは月の引力です。その時空気中に、すなわち大気に海水の塩分を含む微粒子が風(空気の流れ)に乗って陸地に来る事は当然です。昨年は、この現象が多く起こっています。風の道も出来るでしょう。陸地では、土砂の上や植物の葉の上を撫でる様に、移動しますので、現在我々が呼吸している空気は物凄い数の混合物になっています。それに自動車の排出するタール分や化学工場から排出される微粒子が混じるのです。ここまで来れば、「混合物」とは云っておれなく「科学変化」を起こした他の微粒子に成っている事も考えられます。これらをその道の学者は「エアロゾル」と云っている様です。

久留米文学散歩 vol.81

怪火⑦
文/増原 達也

この青木繁は勿論久留米市の出身で洋画家ですが、若くして死亡、苦節の生涯を送っています。彼自身は現久留米市の前身有馬藩の下級武士の末裔で早くから絵を描く事に長けており、天才の名を欲しいままにしていた様です。その事が彼自身にはマイナスになり、彼を外国に行って、画法を学ぶ機会の芽を潰している様です。この性格が生みの母親までも敵に回す事になり、彼自身が福岡市の医院で死亡した際も、遂に母親は彼の側には来ていません。ですから死後の後始末も妹が仕切っています。一方の坂本繁二郎は一九二一年(大正十年)にはパリに絵画の勉強に旅立っています。これには支援者が多数現れ、その人達に絵を買って貰い渡仏費用に当てています。パリの生活は三年間なのですが、この間に青木繁とは技術的にも人間的にも差が出来ています。坂本繁二郎の絵はフランスに行く前と帰国後では大きく変化しています。渡仏前の作品には写生的な精緻さが目立っていましたが、帰国後はターナー的な筆遣いが目立つ様になり、ターナーとプロットも同じ物まで出ています。このターナーは夏目漱石も「坊ちゃん」の中で彼を一度取り上げています。対する青木繁は渡英か渡仏をしたかったのですが、支援者がない上に自身から世間を敵に廻す発言等もあったと思われます。それが「海の幸」に出てくる女性の顔です。このタッチはミレー(英国)が描いた女性のプロットを、三人(全員身内)を重ねて描いた合作で、それを彼が絵にした人物像のようです。彼の「海の幸」は、彼の作品の中で唯一目が生きている物として貴重な作品と思われます。もう十年以上も前ですが、青木繁の作品展が石橋文化センター(久留米)で催された事があります。その時、肖像画の多い(十作品以上)のに驚いた事と同じに、その人物の目が全員同じだった事が強く印象に残っています。人間の目は、その人の内面を現す唯一のものです。だから描き方に依りその絵が生きるも死ぬも、それに掛かっていると云われています。この作品展の展示品の前に円山応挙の「雄松」(襖絵二枚)が展示されていたので彼(青木繁)の絵を観る目に影響したのかも知れません。

久留米文学散歩 vol.80

怪火⑥

文/増原 達也

「父さん、何かあったの?」下の叔母が家に入ると、囲炉裏を前に箱膳を横に座っている祖父に盾問を浴びせていました。「何かて、何がだ…」と祖父は不思議な顔で応じていました。すると、弟を寝かせて戻って来た祖母が、「この子達が狐火を遠くから観たと云うとるが……」この辺の会話の順序は良く記憶していませんが、祖母は明かりを観た事を伝えていたのです。それに対して祖父は、「近頃狐が出ると云う話は耳にしとる。それに家も、ここ二〜三日は毎日の様に鶏を一羽ずつやられとるが…」と、そんな会話だったと思います。そんな事が小学校三年生の頭の中に記憶として残り以後、狐は遠くから観ると、「灯」に観えるものと私の頭の中では忘れられぬものになったのです。本当は何であったか80も半ばになった現在でも不明ですが。只、直線で数百メートル先に「かがり火」が10ばかり、右から左へ移動した事だけは、確かなのです。只、科学や化学が、これだけ発達した現在では、他人に話すことではないので、私の胸に納めていました。そんな事が存った為でしょうか、浅井忠の「狐の嫁入り」の絵は早くから気に掛けて観る事になぅた様です。あの絵は、狐の列や持ち物が影として描かれたバックに色を添えてありますが、狐の動きには躍動感が存り狐や持ち物に色を感じさせています。この人は本来油彩画家なのですが、この絵一枚が水彩画として遺されています。そしてプロット(構成)を青木繁が真似て描いたのが、「海の幸」だという説が存ります。もう一つは魚の水切りを観たのは坂本繁二郎の方で、それを一緒に旅行していた青木繁に話し、あの作品が生まれたと云う説も存ります。この二つの画を観比べてみますと「浅井忠」の精緻さがよく理解できます。一方、青木繁の筆の荒さが目に付きます。もう忘れましたが、この二枚を大きくカラー写真にして某新聞が発表した事があったのですが、その際も評には青木繁が浅井忠のプロットを真似た様な事が書いてあったと記憶しています。 -つづく-

久留米文学散歩 vol.79

怪火⑤
文/増原 達也

どれ程の時間を要したかは忘れましたが、山の中を歩けど歩けど人家が無かった事は子供心に憶えています。元々が中国山脈で標高が高くなっている地区ですから、山の尾根に近い処を歩く様なものです。女三人にどの様な会話であったかは、知る由もないのですが、最後の峠を越えて実家の集落が展望できる処に来た時、「姉さん、あれ葬式の灯りじゃないの」と、下の叔母が母に告げました。私は母姉妹に手を引かれて歩き通していましたので、その方向に直ぐ目が行きました。そうですローソクの火の部分だけが10ばかり母の実家のある処の上から下へと「ふらふら」と進んでいくのです。決して輝くと云った光ではなく「橙」色の色紙を切り取って並べて下へ進めているようでした。それが母の実家の角迄来ると、まるで角を曲がって物陰に隠れる如く、次々に消えて仕舞ったのです。記憶には全く存りませんが、姉妹三人で「あれは葬儀よ」とか、「誰かの結婚式なのかしら」「いや葬式じゃないの、誰か病気の人、居たかね」と三人姉妹は姦しい事でしたが。「あら、家の角で消えていくわ」灯りが消えて仕舞ったのは、どれ程の時間だったか、二分だったのか10秒か、20秒位だったのか、長くてもそんなものだったでしょう。この光は不通の光と違い光子の作用が余りありませんでした。則ち輝きがないのです。橙色の折り紙でローソクの行燈を造り、それを並べて進めている様にも観えました。そんな、こんなで母方の実家に着いたのですが、この寒いのに祖母はある程度の処まで迎えに来ており、母が背負っていた弟を取り上げていました。今考えるとどの様にして祖母と連絡を取ったのか不思議です。「寒かったろう・・・」と云いながら、自分が肩に掛けていたボロ切れを継ぎ足して造った防寒着の様な物で弟を包み受け取っていました。「母さん、葬儀か結婚式か何かあったの」と、下の叔母が早速尋ねていました。「いや、何もないが」と応えたまま、そそくさと家の方へ歩いて行きました。 -つづく-

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