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久留米文学散歩 Archive

久留米文学散歩 vol.73

夏目漱石と熊本そして久留米⑪
文/増原 達也

耶馬渓から帰った漱石は決して「機嫌」は良くなかった様です。鏡子さんが書き遺しているように足に「マメ」を作ったり雪の中で「馬に蹴られた」りした事だけでなく、頼山陽が詠んだ句から受けた感じと実景とが想像と大きく違っていたからではないでしょうか。それにキリスト教の深い信仰を持っている奥太一郎氏とでは話しも余りなかったでしょうから。その証拠に数日同行していた奥氏ですが、本当に漱石と一緒だったかと疑う位、耶馬渓で漱石が詠んだ句の中に奥氏の息遣いが無いのです。だから勿論奥氏が作句した句も遺っていません。彼は敬虔なキリスト教信者で後にその方面の大学の教授にも就いています。それにしても、一句位、亦漱石が句の中にそれらしい人物を読み込む位の事をしても良かったのではないでしょうか。道中句にそれも存りません。漱石が道中で遺した句では本当に奥氏は同行したのかと疑う位です。漱石は道中彼と何を話したのでしょうか。それにもう一ツ大きな落胆が存ったのです。それが漱石が頼山陽の句で受けた直感的な事と実景が余りにも違いすぎていたと云う事ではないでしょうか。真冬と云うこともあったでしょうが、それより山陽の句作の姿勢にあった様です。作風というのもあるでしょうが、ここに山陽作の「泊天草洋」と云うのが存ります。これを読んでみても私の様な知識ではとても理解に苦しむ処が多いのです。例えば
雲耶山耶呉耶越、水天髣髴青一髪
とありますが、有明湾から西側の天を見渡しての事で、これは
雲か山か呉か越か、水天髣髴青一髪   と詠みます。
正直な処「有明海」から呉や越が観える筈はないのです。そしてこの海はそんなに広くもないし深さも存りません。山ばかりは展望できます。只この湾は潮の満ち引きで遠浅になり若し山陽が舟に乗っているのなら、その高低には驚いた筈です。それは詩の中にはありません。
漱石もこの八句の中からその様な事を感じ取ったのではないでしょうか。
尚耶馬渓の景勝を世に伝えたのは山陽が最初と伝えられています。

久留米文学散歩 vol.72

夏目漱石と熊本そして久留米⑩
文/増原 達也

例のとおり元日から同じ学校の奥太一郎さんとごいっしょに年来の希望であった耶馬渓へと旅立ちました。旅の模様は知りませんでしたが、家へ帰る前日か前々日の事でありましたでしょう。豊後の日田あたりの峠で馬に蹴られ雪の中に倒れたと云って、いやな・しかめっ面をして帰って参りました。それからむやみと歩いたものとみえて、足にまめをこしらえておりました。
これは明治32年元日から奥氏と二人で耶馬渓に向けて漱石が出発した時の事を後日妻女鏡子が松岡譲の筆録で「漱石の思い出」として出版した本の一部です。この本に依ると漱石は、どの様な道順でか耶馬渓に直接行ったことになっていますが、彼が後日遺した俳句集等を覧ますと、まず「小倉」に行き
うつくしき蜑の頭や春の鯛
を詠んでいるのです。それにこの小倉には「中原慶太」と云う二松学舎の同窓生が居るのです。その人物の住所氏名は二松学舎第三輯名簿に記載されてもいます。(参考〜この人の住所〜福岡県企救郡小倉寶町)
亦これには前句として「小倉」としてあります。この企救丘と云う処は「小倉」でも「日田彦山線」に乗替えてニツ目位南下した処に位置していますので、漱石の詩とは少し違った感じがします。現在の地理や地図で判断していますので明治の時代とは「ズレ」が存っているかも知れません。
そして二日目に「宇佐」に入るのですが、ここでも前句として
正月二日宇佐に入る新暦なれば、
にや門松たてる家もなし
蕭条たる古駅に入るや春の夕
そして後6句詠んでいます。
この「宇佐」にも二人の同窓生が居ます。
都留光三郎(大分県宇佐郡宇佐村)
本村周三郎(大分県宇佐郡山口村)
当時の印刷物なので文字が不明朗な処が多く存りますので、その点はご了承下さい。そして60句程度詠まれて、久留米の追分で詠まれたであろう前句付の
追分とかいふ処にて車夫共の親方
のっていかん喃といふがあまり
可笑しかりければ
親方と呼びかけられし毛布哉
となります。旅は此処迄で、後は自宅で詠まれたものと思われます。

久留米文学散歩 vol.71

夏目漱石と熊本そして久留米⑨

扨この(株)春陽堂書店ですが、この社の創業者は和田篤太郎で彼は一兵士として西南戦争(西南の役)に参加、帰還後に本を背負って行商から創めたと遺されています。何でも彼は岐阜県の出の様ですから当然官軍だったのでしょう。

西南戦争は明治10年に西郷隆盛を頭とする不平士族が兵を挙げ、明治を作って以降士族の最大且つ最後の反乱で、これに西郷が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒達が参加しています。併し熊本城の攻略に失敗、隆盛は自刃、以降政府の主導と中心は自由民権運動に変わるのです。

西南戦争の総決算(明治史から)

政府軍 兵力 六0,八三一人

死傷 一五,八0一人

戦費 四一,五八七,七ニ六円

西郷軍 兵力 約四0,000人

死傷 約ニ0,000人

処刑   ニ,七六四人

斬首刑 ニ三人

〜詳説日本史研究一九八九年度版から〜

前にも書きましたが、春陽堂は創業者の和田篤太郎が西南の役から帰還後行商から創め、新桜田町に小さな書店を開き、明治15年(一八八二年)頃から木版に手を伸ばしています。伝えられる処では、この和田篤太郎氏は木版画をこよなく愛しており、手の込んだ木版口絵を入れた本を出版することを自社の目標にしていたと伝えられています。併し当時、木版画は全て手作業でコスト面と大量生産が難しかったので、一作品に付き三百部から五百部程を刊行していたと伝えられています。ですから当時としては優れた口絵単行本が出版されていた様です。そして一八八四年(明治17年)頃は京橋区南小伝馬町に移転、その翌年には早くも外国物の本まで出版するに至ってます。明治30年に入ると「中央文学」や「新小説」に「草枕」が出るのですが、それにしてもその春陽堂が現在迄存続した原因ですが、色々と存るとは思いますが、女系の経営者(全般的には保守的で時々光る物を出す)であったのが一ツの原因だった様です。 |つづく|文/増原 達也

久留米文学散歩 vol.70

夏目漱石と熊本そして久留米⑧

文/増原 達也

扨、この「草枕」を小説として出版する切掛けを作ったのは「本多嘯月」と云う春陽堂の社員であった様です。と云うのは彼が会社に通う道筋に漱石宅が存り、その前を通って電停に行くのが通勤の道筋だった様で、その時分は、既に漱石は有名人となっており、雑誌「新小説」もある程度軌道に乗った頃だった様です。そんな事で本多氏は日露戦争(明治37年〜同38年)も終りこれが、これからの日本文壇にどの様な影響を及ぼすかとか、雑誌「新小説」にはどの様な影響が存るかを漱石に伺いに行ったと云うか通勤途中の道筋でもあるので彼は立ち寄ったと云うのです。丁度その日は漱石宅は畳替えをしており、家の中をうろうろしながら、それでも漱石は心良く応じてくれた、と本多氏は書き遺しています。漱石の機嫌も良かったのでしょうが、この本多と云う人もその日が初めてではなく、それ迄に通勤途中、何度も漱石には逢っており彼が漱石から好感をもたれていた事は察せられます。それにこれ迄も、1〜2の作品を春陽で出版してもいます。そして「草枕」執筆の承諾を得るのですが、1週間で上梓するから、その間は来るな、と漱石から云われており、彼は七日目の朝に漱石宅に出掛けたと云うのです。すると10行20字詰め原稿ニ百枚が出来上がっていたのです。本多氏は一日の遅れもなく上梓した健筆には敬服したと書き遺しています。それが、「草枕」です。この頃の事を漱石の妻女鏡子も彼が机に向かうと印刷でもする様に次々に原稿用紙が上がっていたと「漱石の思い出」の中に遺しています。それに訂正もなかったと伝えられています。これには小天への思いが強かった事、即ち「那美」さんの思い出の強さを表現しているとも云え、亦経済的な余裕が裏付けされているからでしょう。この頃の作品を列記してみると「吾輩は猫である」(ホトトギス)に連載。「倫敦塔」(帝国文学)、「カーライル博物館」(学塔)、「幻影の盾」(ホトトギス)、「琴のそら音」(七人)、「一夜」(中央公園)に、そして明治39年になって「趣味の遺伝」(帝国文学)と云った具合で経済的にも可成り余裕が出来ていた事を物語っています。

久留米文学散歩 vol.69

夏目漱石と熊本そして久留米⑦
文/増原 達也

別項に記載していますが、現在は彼女が「自殺未遂」した場所は様変わりしています。彼女の心理を紐解く事は難しいのですが、当時の状況を様々の本から読み込んで、死ぬ気は無かったと思われます。
併し漱石には可成りショックだった様で、その頃にも(柳散る…)を残し、また句の様に至るのです。
只この時の気持ちは彼にとっては忘れがたいものだった様で7〜8年後の「草枕」を執筆した際には前段部分に似た様な文章を遺しています。それが「春は眠くなる……」から5行程ですが、この中には外国の詩人(シュレー)の内容と似た処もある様です。
扨問題の「草枕」ですが、明治39年9月号の「新小説」と云う雑誌に一括で載せられています。これが大変好評で売切れが続く有様だった様です。これを読んだ朝日新聞社の社主が、当時は東京と大阪とに分かれており、これを読んだのは大阪側で東京に連絡、小説記者として入社して貰う様、活動せよとなったそうです。その使者に立ったの、池辺三山です。本名は池辺吉太郎でこの人物は熊本県玉名郡横島の出身で先代は西南戦役の際、薩摩に参加、その戦後斬首されています。その吉太郎も参加はしたのでしょうが、まだ未成年だった為に生き残っています。その吉太郎が漱石と同じ明治14年の二松学舎入学者名簿に名前が存るのです。処が両者が書き遺している物には両者共に入社交渉のあった時が初対面と遺しています。漱石に至っては、西郷隆盛を彷彿させる人物であったと遺しており、三山の方が朝日新聞を早く辞めるのですが、亦三山の方が早く死にもし、その際の悼辞は漱石が書いています。漱石と三山は二松学舎の同じ時期に入り、同じ名簿にも名を連ねているのに何故朝日の入社時まで逢う事がなかったのか、その辺の事を一度ゆっくり調べてみたいと思います。只朝日が入社交渉に行く前に読売新聞も入社交渉に行っているのですが、何故か漱石は断っています。
尚、二松学舎の名簿には夏目金之助ではなく塩原金之助で掲載されており、夏目漱石に返るのは可成り後になります。

久留米文学散歩 vol.68

夏目漱石と熊本そして久留米⑥
文/増原 達也

菜花黄 明治31年3月作

菜花黄朝暾 (菜の花は朝日の中に黄色く浮かび)
菜花黄夕陽 (菜の花は夕日を浴びて黄色く輝く)
菜花黄裏人 (菜の花畑いちめんの黄色の中に立つ私は)
晨昏喜欲狂 (朝に夕べにもうれしくて ものぐるおしいほど)
曠懐随雲雀 (ふくらむ私の心は雲雀と共に舞い上がり)
沖融入彼蒼 (みなぎる喜びは天上界に入ってゆく)
縹渺近天都 (遠く高く天帝のみやこに近く)
迢逓凌塵郷 (はるかな高みまで、俗世間から遠ざかる)
斯心不可道 (この心地よさは云いようもなく)
厥楽自黄洋 (この楽しみは深く広い)
恨未化為鳥 (嘆かわしいのは小鳥になって)
啼尽菜花黄 (菜の花の中で鳴き暮らすのが叶わぬ事)

〜漢詩に見る日本人の心から〜

この詩明治30年暮れから31年初頭に掛けて小天温泉に旅行した後に詠まれたもので同温泉の卓子さんとの思い出が残っている時のものです。それは悲劇に繋がるのですが、その事はまだ表面化していません。併し、この詩を書いたときの漱石の行動や言葉は相当浮き浮きしていたものと思われ、それが妻女の鏡子に伝わらぬ訳はないのです。だからこの詩「菜花」は卓子(小説草枕では那美)ではないかと思われます。菜花黄の詩中3ツ目の「人」は卓子の幻想を彼は「菜畑」に見たのではないでしょうか。参考書等に依りますと、この詩の件から妻女鏡子は先手を打って「自殺未遂」に迄及ぶのですが、それが漱石にも伝染してか、この時期彼も強度のノイローゼに陥っていた様です。それに彼の漢詩には必ずと云って良い程、彼自身の内面の争いが出るのですが、これにはそれが無いのです。

久留米文学散歩 vol.67

夏目漱石と熊本そして久留米⑤
文/増原 達也

この井川渕に転居して来たのは31年3月で次に転居したのが同年7月に内坪井町です。ここが私が最初に熊本で漱石の足跡を尋ねた所になったのですが、順に書くと下通町から合羽町ニ三七(現坪井ニ丁目一)で次が大江村四0一に転居、そして井川渕八となるのです。(少し違った処があるかも知れません。)ここが鏡子の入水の地です。もう20年以上も前にそこを尋ねてみました。藤崎八幡宮から白川に沿って下った2〜3百米の処に「明午橋」と云うのが架かり、その右側の川渕なのですが、当時と違い川の両岸に大きな堤防が設けられていますので、川幅は可成り狭くなり川の流れも急になっている気がしました。その橋の中央迄進み当時の状況を想像してみました。話に依ると「彼女を最初に助けたのは、その川で漁をしていた漁師だった。」と伝えられています。と云う事は彼女が入水する時から漁師の目に姿は入っていた事になり、彼女には距離からして助けられる事は計算尽くだったと思われました。早い話漱石に対する「脅し」に外ならなかったのでしょう。問題はこれからです。五高教授と云えば地区、いや日本でも当時は知名士です。新聞社が直ぐ知る事になり、若しかしたら翌朝の紙面には三面に大きく、「教授浮気で、妻女入水自殺」これ迄大きな字で、その横に小さく「未遂」となっていたでしょう。これを抑えたのが「菅虎雄」だったと伝えられています。勿論彼一人ではなく市内報道機関に顔の利く人が中に入り、その手先は、一斉に熊本の報道機関を廻り、遂に一行の記事にもなっていません。これに対して漱石が虎雄や地元の有力者にどの様な礼をしたかも彼自身も一行も遺していません。併し31年の短歌の中に一首それらしきものが存在しているのです。それが「柳散る柳散りつつ細る恋」(31年作)柳とは中国ではそちらの方の女性の代名詞となっており、漢詩をやっていた彼はその事を熟知していたでしょうから。それにこの句は同年の末尾の方に輯録されているのです。以後彼は男女関係の機微や人間関係の作品を多く遺していますが、根はこの辺に存るようです。

久留米文学散歩 vol.66

夏目漱石と熊本そして久留米④
文/増原 達也

この様な事が続いた為、彼も俳句を詠む気にはならなかったのでしょう。併し漢詩の方は29年6首、30年1首、31年4首、32年4首と遺されています。この漢詩の一番多いのは大正5年で78首となっています。この78首は当時、「明暗」を執筆中で彼が遺した記録では午前中明暗の執筆午後漢詩詠みに専念したとしています。前に戻りますが、鏡子の悪阻は相当激しかった様ですが、自分自身が迷いの最中であり、それが神経にも障ったのかノイローゼ気味が続き家庭も険悪な状態だったようです。そんな時だったので漱石の気持ちも那美さんの方に動きかけ、それが家庭での態度にも現れた事は十分に考えられます。元々漱石が鏡子を知り結婚に踏み切ったのは鏡子が女として男の目に一番魅力のあった年齢で、只、それだけだった様な気がします。もう一つ存りますが、これは後日述べさせてもらいます。それが慣れない生活に苦労している上妊娠すれば女の肢体は大きく変化します。男には決して好感を与えるものではありません。それの逆が初産後の肢体、容貌は妊娠中の肢体を取り返す如く男に魅力的になっています。こんな事ですから彼が那美さんを事ある事に思い出し特別に比較する分けではないのですが、目の前の鏡子と比較するのは仕方ない事だったと思われます。ですから漱石自身には浮気と云った感情は相当希薄であったのでしょうが、鏡子と肉体関係も両者間では遠のいていたことは考えられ、それが一層鏡子との会話を少なくしていた事も当然考えられます。そんな事は漱石自身も気付き亦鏡子自身もそれなりに気にしていただろう事は想像されます。それに他の先生(五高)から那美さんの人柄等も鏡子自身の耳に入れていた可能性も強く、もう一つは漱石の女性歴等(順さん、眼科医の女等)も面白おかしく鏡子の耳に入る様な話し方が存ったと考えられます。これらの事が半分寝たり起きたりしている彼女の気持ちにどの様に作用しただろうか。それに当時住んでいたのが、「白川」の川沿いであり、この家の二階から白川の流れを眺めた鏡子は川から何を思わされたのでしょうか。

久留米文学散歩 vol.65

夏目漱石と熊本そして久留米③
文/増原 達也

昭和63年に永田書房が纏めた物で私の研究に関係がある明治29年から同32年の発句を表にしてみました。明治29年四九七句明治30年二六六句明治31年一〇二句明治32年三三〇句となっており、31年発句の少なさが良く判ります。私はこの原因を知りたかったのです。そこで全集物やその他著書で調べてみますと、この年すなわち前年の30年に、実父直克が81歳で死亡、漱石は暮れから正月に掛けて小天温泉へ、そしてその前年だったと思いますが、彼を文学に傾注させた米山保三郎が死亡、この事は「猫」で「空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と墓碑銘に記する場面は、この米山氏の事を書いていると伝えられています。そして31年になって鏡子の悪阻が酷くなり、彼自身も例のノイローゼ気味となっていた様です。そこへ前年、すなわち明治30年暮れに出掛けた「小天温泉」の「卓」(小説では那美)さんとの関係が尾を引いてくるのです。この那美さんですが、「小天温泉」の後「孫文」の秘書となったという説があるのですが、その職ではこれと云った功績が無かったのか、「孫文」自身の小説や伝記にはそれらしい人物は見当たりません。只、新潮社の日本文学アルバムの69頁の左上と右上に小天時代の写真(これは小天の漱石が泊まったと云う部屋にも掛けてあるものと同じ)が、69頁の上部に孫文の第二婦人と一緒に掲載されています。この時卓さんは中国服を着て第二婦人と云われる人は和服の様です。この卓さんと漱石は小天では話が弾み草枕でも、それが感じられる様に書かれ両者が好感を持った事は事実の様で、熊本に帰っても漱石の話や行動にはその影が鏡子には見え、感じられたのでしょう。亦、地元(小天)の人の話では卓さんが漱石を案内して宮本武蔵が五輪書を書いた五百羅漢の洞窟を見学したとも伝えられており、事実その道の過程に五輪の塔と云うのが存るのですが、それが草枕の前段部分に採用されてもいます。

久留米文学散歩 vol.64

夏目漱石と熊本そして久留米②

文/増原 達也

その坂を頂上から少し下がって右に折れると漱石の旧宅に当たります。可成りの広さの家で漱石が入居する以前は彼の友人の狩野亨吉が住んでいた様です。私がこの時、熊本に行ったのも、漱石がここに住むようになった原因や過程を知る為でもあったのです。この家は現在、漱石の博物館にもなっており、色々な資料等も陳列してあります。そこに着くと直ぐ署名して館内に入り左手に屏風の様な物に彼の転居先とその年月日、当時の出来事等も記入してある物があり、私も直ぐそれを写そうとして二〜三行書いた時だったと思いますが、その館の案内人の方が、「これを・・・」と云って差し出してくれたのが、その屏風の中に記入してある事が全て記載してある物だったのです。「どうもありがとう御座います」と云って受け取り、一応目を通して「処で先生、漱石の俳句の中で明治31年が少ないのは何故ですか」と尋ねてみました。正直、熊本に行ったのも半分はその為でもあったからです。そしてこんな施設で説明に従事しておられるのだから、専門家だろうという先入観が私自身にあった事は事実でした。処がその人の話は素っ気ないものでした。「その年は移転や何かで多忙だったからでしょう。」と答えられただけだったのです。そして次の見学者の処に行かれたのですが、私の落胆というか失望は大きな物でした。その時の私の身形も褒められた物ではなかったのですが。その後は見学する気にもなれず、外に出て、それから数拾年過ぎた現在でも忘れません。その後一〜ニ度熊本には参りましたが寄る事はありませんでした。扨そこで「夏目漱石句集」((株)永田書房)(昭和63年12月9日発行)に依りますと当時調べられた俳句、漢詩だけで俳句がニ四三一句で漢詩が二〇八首となっています。

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