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街のチカラ新聞 vol.82じぶんスタイル

おもてなしを追求お客様の「いいね!」の声が私を成長させてくれる

『とうふ処 梅乃家』女将 牟田 博子さん
【PROFILE】むた ひろこ

1948年生まれ。八女出身。三潴在住。1978年に篠山町に店をオープン。1991年に現在の場所に移転。仕事後、夫婦での夕食が唯一の楽しみ。お酒も少々……。現在、梅乃家ホームページ内のブログで奮闘中。『とうふ処 梅乃家』城南町21-9 問/0942-35-0603

 おもてなしといえば、定評高いのが豆富料理を続けて三十二年目の梅乃家。女将・牟田博子さんは、「大切な時間を割いて来て下さっているお客様が、気持ちよく心地よく過ごしてお帰りいただくのが最大のおもてなしです」と、話す。
 それは、この店で働くスタッフも同じ気持ち。お客様一人ひとりの苦手な食べもの、好きなビールの銘柄などお客様の特徴を知り、嫌いなグラタンの変わりに茶碗蒸しを出すなど、常にお客様の立場になった接客が伺える。
 厨房では、器は汚れていないか、欠けていないか、料理は冷めていないか、盛り合わせ方はどうか、運ぶ時間はちょうどよいか……常に女将さんがチェック。それでもうまくいかないことがある。
 「料理は一番良い状態で召し上がっていただくことが大事です。スタッフも私の気持ちをくみ取ってくれて、おもてなしの心を大事にしてくれています」
 そして、もう一つの大事なおもてなしは、
 「裏でどんなに忙しくても、お客様の前では心から気持ちのよい笑顔で」
 店内には季節の雰囲気を醸し出すしつらえ、今の時期は愛らしい蛙も飾られている。そして、女将さん手描きの絵、和の情緒を漂わせる刺子のタペストリー、玄関や各テーブルに季節の野花が、決して派手ではなくさりげなく飾られている。
 「食事だけではなく、楽しむ空間をつくるのが私の役目だと思っています。お客様から『あらー、かわいいねー』と、喜ばれる言葉が聞かれた時、よかったなと思いますね」

乗り越えられるのは
「お客様に喜んでもらいたい」
の思いから

 全部で二十五箇所にも飾られた花は、かつてはいけ花の先生に依頼していた。しかし、三ヶ月程で辞められ、明日から二十五箇所を全部自分でいけなければいけない……女将さんの仕事がまた一つ増えた。
 「でもピンチはチャンスなんですね。窮地に追い込まれると、何とかなるものです」
 知人に事情を話すと、茶花を扱っている花屋に連れて行ってくれた。そこで目にしたのが、壁にかけられていたそそとした花だった。
 「あー素敵!私がいけたい花はこれだと思いました。」
 それからさっそく茶花を習い始めたそうだ。毎朝花を集めるのが日課。夫婦で山へ行くこともしばしば。
 「十一時の幕が開くまでには全箇所の花が入っていないといけないんですよ。続けることって本当に大変だなと思います」
 約二十年間、店の各箇所に女将さんの優しさがしつらえとして息づいている。
 こんな店の魅力に惹かれて、結婚記念日、誕生日、お節句、お宮参り……そんな記念日に訪れるお客様も多い。そんな時、女将さんは手描きの絵をプレゼントしている。店の仕事の合間、少しの空き時間を利用して描く。淡い水彩のタッチは温かく優しい。
 五~六年間、本を見ながら独学で描き方を学び、最近は絵手紙を習い始めた。当初、稽古のつもりで和紙に絵を描いて胡麻豆富や持ち帰りの品を包装していたこともある。
 「記念日のために何かできることをと思って、シーンに合わせた絵を描いてプレゼントしています。上手には描けないけれど、『うわー、いいね』とお客様がおっしゃるような絵を描きたいといつも思っています。
 でも、行き詰まる時もあるんですよ。それでも乗り越えられるのは、『お客様に喜んでもらいたい』その思いだけです」
 「お客様に良いものを出したい」、厨房に立つ息子も思いは同じ。なのに、それぞれの思いが強くて料理のことでしばしばケンカになる。
 ある時は、ケンカをして出て行ったこともある。どこに行こうかと考えているうちに、「そうだ、お客様にプレゼントする絵の材料を買わなきゃ」……気づけば店に入っていた。
 「結局、出て行ったのは三十分だけ。こっそり帰ってきて絵を描き、普段通りの仕事に戻る始末です」と、女将さんは笑う。頭の中にあるのは常にお客様が喜ぶ顔。
 「お店のしつらえ、絵を描いたり、それらは結局、お客様の時間を大切にするということでもあり、お客様を喜んで迎えられるという自分自身の安心でもあります。お客様の『いいね!』と言われる言葉によって、こうして私は育てていただいているなと感じます」
 そこには、おもてなしの心が導いてきた女将さんの人生があった。

※梅乃家では『豆腐』ではなく『豆富』と表現しています

文/森 志穂

これが自分スタイル描くのは天然木を囲む温かい暮らし 孫の代まで伝える琥珀色の宝石

jibunstyle66.jpg天然木の家具のお店
『Amber』オーナー
水谷  崇史  さん

【PROFILE】みずたに  たかし(35歳)
1974年生まれ。京都府出身。上津町在住。妻・香織さんと共に2008年10月に店をオープン。趣味はパソコンで調べものをすること。『Amber』久留米市山川野口町12-33
問/0942-45-1017

 天然木が伝える温もりと味わい。一枚板の豪快さ。その魅力を誰よりも知り、提供している水谷崇史さん。久留米に店を構えて一年七ヶ月。天然木の一枚板に囲まれた店内は、ドアを開けると清々しい気の香り。たちまち癒しの空間に包まれる。テーブルや座卓、雑貨などが並び、部屋のイメージが広がる。
 「敷居が高い山奥の店などではなく、お洒落な生活の一部分として手に届く店でありたいと思います」と、崇史さんは話す。商品は全て天然木を使ったオーダーメイド。
 「自然の形を活かしてテーブルなどを工夫してつくるのが好きだし、一枚の板を磨き上げて、木の表情がだんだん浮かび上がってくるのは楽しいです。人工的な家具も良いですが、天然木が生み出す曲線には勝てないでしょう。それに、一枚板は迫力があってそれだけでも存在感を出します」
 「同じ品は絶対にないんですよ。同じ木からつくった品でも切り口によって模様が変わってきます。色も黒、赤、木目と天然の色は素敵です。模様も形も木そのものがデザインなんです」と、妻の香織さんも天然木の一枚板に魅了された一人だ。
jibunstyle7u.jpg 水谷さん夫婦は京都の一枚板専門店に六年間勤め、結婚を期に香織さんの故郷である久留米に移住。京都では仕入れ、顧客管理、店づくり、スタッフ育成と、全てこなしてきた二人。しかし、店が大きくなればなるほどお客さんと接することが少なくなり、自分が勧めたくない品も勧めなければならない状況に矛盾を感じていた。
 「ここでは自分で見て仕入れて、全部がお客様に自信を持ってお勧めできます。売りつけるのではなく、あくまでもお客様に選んでもらうのが基本。主役はお客様。店としてはこだわりがないのが、こだわりでしょうかね」
 販売する時は決して押し付けずこだわりがない。しかし、商品づくりにはこだわる。化学塗料は使わず自然塗料。あくまでも自然の良さを引き出した商品づくりだ。

年月が経った魅力的な
天然木のように、
人との繋がりも長く大事に

 テーブルを購入したお客さんからは、テーブルを中心に家族が長い時間集まるようになったという声。崇史さんがいつも頭に描くのは、天然木を囲む温かい暮らしだ。
 「食事をするだけではなく大きなテーブルの片方では子供が宿題をし、片方ではお母さんが家計簿を付けるような、リビング・ダイニングがつながった家族が集まる場所になればいいなと思いますね」
 「家具を選びに来られる方は皆ハッピーな気持ちで、幸せな食卓を囲みたいという人が来られます。それがまた楽しいです」
と、香織さんも微笑む。
 店の名『アンバー』は、『琥珀色・あめ色』の意味。
 「木の樹液が固まり化石になって琥珀色の宝石になるように、使えば使うほど琥珀色になり艶が出て深い味わいが出てくる天然木の家具を、宝石のように長く大事にしてほしいという思いがあります。年月が経つと手触りや香りも魅力的になり、傷もまた味の一つになってきますよ。天然木は孫の代まで使えますし、何百年もの年輪を重ねていますからね」
 中には、家族が増えたためテーブルを切って個人用デスクにつくり変えたり、家族が減ったためテーブルをベンチにつくり変えるなど、崇史さんは天然木を活かしながらその家に合った家具へと蘇らせる。
 長く使ってほしい。そしてまた、自分達との付き合いも長いものであってほしい。『アンバー』という店の名には、そんな一つひとつの家具、一人ひとりのお客を大事にした思いが見える。
 「お客様と一緒に選び、仕入れから納品までお付き合いできるのが楽しいですね。納品の時はどんな家に品物が置かれるのかなと、娘の嫁ぎ先を見るような思いです。その後のメンテナンスも万全です。家族の皆さんともお会いして、深く長く付き合うことができることが嬉しいですね」
 こう話す二人。久留米の町とも長い付き合いになることだろう。
 「麦畑や田畑風景が見られ、育っている作物で季節を感じます。久留米は見て食べて季節を感じられる町だと思いますよ。その一方では、お洒落な生活感覚を感じられる町であり、いろんな情報が届いている町。女性のフットワークが軽く活発な町だと思います。ぜひこの町に店を構えたいと思いました。この町に天然木、一枚板の良さが伝わり広まるといいなと思います。夢は特に大きなことは考えていません。細く長く店を続け、一人ひとりのお客様に丁寧に接していきたいと思います」
 天然木のテーブルが家族の団欒を育むように、『アンバー』は人々との繋がりを琥珀色に紡いでいるかのようだ。

文/森 志穂
写真/山口 拓朗

これが自分スタイル-読書の合間に生活がある-『几帳面な怠け者』です

jibun-style_4_1.jpg久留米子どもの本を読む会 代表
田原 和子 さん

【PROFILE】たはら かずこ(72歳)
1937年生まれ。幼少期を朝鮮で過ごし8歳から鹿児島県。その後結婚して久留米に住む。1978年『久留米子どもの本を読む会』結成。1980年『久留米子どもの本の学校』を開設。座右の銘は「明日できることは今日はやらない」(工藤直子)。問0942.39.1649
 当紙くるめすたいるの絵本の紹介コーナー&コラム『たのしい本のせかい』の筆者田原和子さん。石橋文化センターに久留米市民図書館が建設される一九七八年頃から「子ども達に読書を」と、読書運動を広めた第一人者だ。
 ままごとをするより本を読むのが好きだった少女時代。結婚しても、家事の合間に読書をするのではなく、読書の合間に家事をしたという。
 「『几帳面な怠け者』(作・ねじめ正一)という本がありますが、それはまさに私です」
 また、田原さんは自分のことを『本の探検家』とも言って笑う。
「私の場合は面白い本を見つけるのが好きなんです。こんな効果がありますよではなく、こんな面白い本がありますよと皆に教えてやりたいんです」
jibun-style_4_2.jpg 当時、久留米市民図書館開館の九月に先立って四月、『久留米子どもの本を読む会』を立ち上げた。
 「子ども達に読み聞かせをするにあたって、どういう内容の本があるのか知りたい。児童書の勉強をしましょう」
 市民に声を掛け、当時は中央公民館で読書会を開いた。
 「本を深く知っていると、子ども達に読んでやる時に伝え方が違ってくるんです」
 一九八〇年には同会が主催する『久留米子どもの本の学校』を開設。定期的にいろんな絵本作家を招いて聴講し、児童書や絵本について大人が勉強する場を設けた。今も市内だけではなく柳川、佐賀、筑後などから受講者は多い。
 「読書はしつけや教育のために使うものという考えが強かった時代でした。絵本はこんなに楽しいものよ、もっと気楽に楽しんでいいのよというのをとにかく伝えたかったですね。講演の作家の方々には、子ども達が今どういう環境にあるのかという投げかけをしてもらっています」

読み聞かせの魅力は
「楽しかったね」の共有

 テレビ、ビデオ、ゲーム、携帯、パソコン……子ども達を取り巻く環境はメディアで埋め尽くされている昨今。コミュニケーションが下手な子ども、暴力的な子どもが増えていると
いわれる時代だ。
 「『読み聞かせをしなさい』と、誰かが声を大にして教えてあげないと……。お母さんは忙しい、お父さんはかまってくれない、となるとテレビやビデオにいってしまう。映像は一方通行です。感情の交流ができません。そのためか、笑わない子が増えています。読み聞かせをしていると、子どもが言葉を返してくるようになります。本を読んでそれで終わりではなく、ここが面白いねと思った時に、その『面白いね』を受け止めてくれる誰かがいるというのが大事なんです。一つの本を通して『あー楽しかったね』というそんな共有が大切です」
 今の時代だからこそ読み聞かせが必要だと田原さんは話す。そして、それはしつけや教育ではなく楽しむことだと。
 「『早くしなさい』『……しちゃだめ』そんな親の言葉は、発する方も緊張した声です。読み聞かせの時の親の一番いい声、優しい声を子どもに記憶として残してあげましょうよ。ぜひお父さん達にも読んでもらいたいものです。男の声で読むと楽しくなる本がいっぱいあります。それに、母親ばかりだと女性の感覚で本を選んで偏りがちだけれど、父親は女性が選ばないようなジャンルや、遊びを大事にした本を選びます」
 本の魅力は?「自分の知らない世界を知ることができるでしょ」と、話す。その話はいつの間にか子育てへと繋がった。
 「今日本の子どもたちに、もっと冒険しなさいと言っています。子どもの時から冒険させなきゃ。多くを望まなければ失敗しても何とかなるものです。どんな考え方で子育てをしていけばいいか、それは読書とかけ離れているようで繋がっているんです。絵本を読んで育てた子どもは自立していける力を持っています。例えば、家出をする本を読んだことのある子どもは、親に怒られてシュンとするばかりではなく、家出をしてこういう世界もあるんだということを知っているので気持ちが解消できます。いろんな考え方、生き方をする人がいるんだと知っていると、自分がその場に当たった時に予想ができます。自分の経験だけで判断しちゃうと、世の中は暗い狭いものになるかもですね。小さい時に本に触れることは、行き詰まった時の風穴を開けるきっかけになりますよ。本によって自分の世界をつくり上げていけるし、知らない世界を知ることで、気持ちが広い世界へ広がって行くものです。何より子ども達には、面白い本とたくさん出会って、もしかして、人生とは楽しいものかもしれないと、未来に希望を持って欲しいのです」
 それらは、自ら命を絶つ子どもが多い現代に響いた言葉だった。

文/森 志穂
写真/山口 拓朗

これが自分スタイル「花ありて人生は楽し きみありて人生は楽し」

日本ツバキ協会 久留米支部長
久留米つばき研究会 会長
久冨  舜介  さん

jibun-style3.jpg【PROFILE】ひさとみ  しゅんすけ(73歳)
1937年生まれ。久留米市草野町出身、在住。1960年、幸恵さんと結婚。1965年~ミストハウスの普及により本格的に生産販売に携わる。趣味は海外旅行(南米で椿に出会った旅行は感激だった)

 日本古来から愛されている椿の花。日本ばかりか一八三〇年シーボルトが広めた椿「正義」の美しさは、今や世界各地に広まっている。世界の愛好家が研究発表や情報交換を行なう国際ツバキ会議が、世界二十八カ国で二年に一度開かれており、今年は三月二十日~二十四日久留米にて開催。海外から約二百名、全国三十五市町から約五百名の人々が来訪する。合わせて三月二十日~二十二日、市民交流事業として石橋文化センターを中心に久留米つばきフェアが開催される。
 ツバキ苗生産日本一を誇る久留米には、樹齢三百年を超える古木が今も花を咲かせており、特に東部の耳納北麓一帯は苗の有名な産地。三月二十一日~二十二日、草野町では耳納北麓草野つばき祭りが開催され、山辺文化館では三月二日~三十日、つばき展が開催される。
 草野町で五百以上の品種を生産販売している久冨舜介さん。「久留米の民家には椿が庭に咲いている家が多くあり、椿文化を育てる地域風土があります。特に草野には古木がたくさん残っているのでここから椿文化を発信したい」と、話す。
 実生をして新種が育つのはその中のごくわずか。接木をして花を咲かせるまでに四~五年かかり、売り出すまでには十年かかるという。次々と新品種を生み出し、我が子のように椿を育てる久冨さんは、「椿を育てるのは子育てと一緒たい」と、笑う。
 「十年経ってやっと、よか子に育つかどうかがわかります。新品種を生み出しても認められるまで何年もかかります。全国行く先々で椿を見かけると、俺の育てた品種だなとすぐわかりますよ。双子でも親は区別ができるのと同じたい」
 高校時代から、家にはない椿をカタログで取り寄せるほど椿に関心があった久冨氏。一九五八年、県の農業改良普及所の呼掛けがあって椿の苗づくりを試みることにした。ある時、それはまだカラーページが珍しい時代、生け花・安達流の家元が何種類もの椿が載ったカラー写真を見せてくれた。
 「こんなに種類があったのか!と、衝撃的でした。花色だけでなく、八重咲、唐子咲、しぼり咲、大輪、小輪と花形が一つ一つ違う。椿ほどいろいろな形や色のあるものはないと思いました。当時、その中でも大きく派手な唐子咲が最も美しいと思ったんです。その時から、俺は椿をやろうと決心しました。唐子咲は思い出の花ですよ」
 そう言って、久冨氏は命の次に大事だという琥珀色に焼けたその写真本の表紙を開いてみせる。
 この決心の時、久冨家にすでに嫁いでいた妻の幸恵さん。当時をこう振り返る。
 「台風の時も、夫は椿の仕入れに行っていて不在でした。珍しい椿があったら、何はさておき見に行っていましたから。初めて見る椿をみると、きれいな女の人に会ったのより嬉しいと言っていましたよ」
 夫婦共に椿を育て販売していく中、幸恵さんは旅先等で椿の絵のグッズを目にすると買わずにはいられないという。器、皿、タオル、暖簾、一輪さし、扇子……彼女もまた椿の虜だった。
jibun-style2.jpg 「二人で集めたコレクションの数はものすごい。特に私は絵画集めが趣味です。芸術的な絵よりも、実物に近い描き方をしている絵の方が好きです。椿は花形が良くてしっかりまとまった花。その特徴をうまく表した絵に惹かれますね」
 久冨氏は幸恵さんの顔を見ながら、嬉しそうに話す。椿コレクションの数、ハウスに広がった五百種もの椿の苗は、二人で歩んできた証でもあった。

時代を開き、国境を越える花 

 久留米つばきフェアでは、これらの久冨家の椿コレクションが、石橋美術館下の一室に展示される三百種の椿の切花、百鉢ほどの鉢物が市民ギャラリーを賑わす。期間中、巡回バスも運行し、久冨家のハウス、草野町に咲く古木、久留米つばき園(久冨氏が管理部会長)も見学コースとなっている。
 「ぜひ足を運んで、椿の多彩さ良さを感じてもらいたいです。まずは花に惚れてもらいたい。美人も見ないとわからんでしょ」と、久冨氏。
 「椿は大輪は賑やかな場に晴れ、小輪は小さい器に挿しても美しい。一輪だけ挿しても様になる花が椿なんです。茶席に生けるような一重の小輪も質素な美しさがあり、私は好きです」と、幸恵さん。
 さらに、久冨氏は次の時代を見つめる。
 「うちに来れば交配用花粉や品種苗を分けることができます。人気品種も時代によって波がありますが、しばらく育てていなかったという品種もここに来ればちゃんとあります。次の時代のためにぜひ活用してほしい」
 この三月、日本全国、世界各国の多くの人の心に久留米の椿のつぼみが宿るに違いない。今回、久留米に海外からのお客様がいかに集まることになろうとも久冨氏はこう語る。
 「花を見るのに言葉はいらんとたい」

文/森 志穂
写真/山口 拓朗

これが自分スタイル-天に昇る龍のように私もとことん昇っていきたい

天に昇る龍のように
私もとことん昇っていきたい

nakamura_02_1.jpg中村 龍広 さん

【PROFILE】なかむら たつひろ(57歳)
1952年生まれ。久留米市荒木町出身。筑後市在住。5年前に脳梗塞で倒れ右手が不自由に。2年程前から火曜、土曜に『いきいき野中デイサービスセンター』にリハビリに通い、昨年6月から左手での絵に挑戦。

 「中村さん、一緒に描きましょうよ。大丈夫、左手で描いたらいいんですよ。絶対描けるから」
 『いきいき野中デイサービスセンター』主任の佐藤さんのその言葉で、再び鉛筆を握った中村さん。
 「時間はかかったけれど、久しぶりに絵を描けて嬉しかったです。出来上がった時にはスタッフの皆さんがすごい!と言ってくれて嬉しかったです。続けて下さいよと励ましてくれました」
 左手で初めて描いた花菖蒲の絵は、とても色鉛筆とは思えないほど色鮮やかで細やかな柔らかさがあった。
「庭に咲く花菖蒲を見て、この花ええなーと思い写真を撮って描いたんです。出来上がった絵をスタッフの方々に褒められ、左手でも描けるんだと自信ができました」
 中村さんは、中学の頃から絵を描くのが大好きだった。とくに似顔絵の水彩画を得意とし、描いて人にプレゼントするのが好きだった。「おまえ、美術学校に行けや」と、先生に言われたほどだったが、家庭の経済的な理由で断念し、それでも趣味で描き続けた。
 五年前、仕事中に脳梗塞になり倒れる。その後、当時住んでいた山口から久留米に戻り、妹さんの家に住んでリハビリに励んだ。「右手が動かないから絵を描くのはだめだ……」。趣味で描くことさえ諦めた。
 昨年から一人暮らしを始め、一人で静かに過ごす時間も増えた。そんな時だった。右手でなくても絵は描けると、佐藤さんをはじめスタッフの方が声を掛けてくれたのは。
 「右手では何でもないことが左手では難しいんです。絵を描き始める前に、まずは左手で線を書く練習を一週間ぐらいしました。左手で絵を描くと、描いた線が手で隠れて見えないんですよ。色を塗る時は消しゴムで消せないので失敗はできない。線からはみ出さないように、息を止めてゆっくり時間をかけて塗っていきます。絵の具と違って色鉛筆は色が薄く、濃く塗るためには力を入れて塗らないといけなくて手が痛くなります。すぐ鉛筆の先が丸くなり頻繁に削がねばなりません」
 一枚の葉っぱを描くにも二~三時間かかるという。少しのはみ出しもブレもないよう心は左手に集中。「絶対に失敗したらいかん、絶対に仕上げんといかん……」。そう思う一方で、なかなか思い通りに描けない。イライラする時は休憩しながら。けれどまたすぐに描きたくなるという。
 「絵は自分にとっては挑戦です。描き上げないと許されない一つの意地です。失敗したらすぐ破り、一つを仕上げるのに二~三十枚破ります。たとえ色まで塗って半分以上出来上がっていても……。何度破ってもそうまでしても描くことを諦めないのは、自分が絵を好きだからでしょう。その気持ちを何年振りかに思い出させてもらったからです。絵を描く時は、他のことを一切考えないでいいので心が楽になります。これまでの辛かったこと、困ったこと、病気になったことも描き始めたら関係ないんです。一つの絵が仕上がった時、自分の一つの挑戦が終わったなと思いますね」
 一つ乗り越え、一つ作品が出来上がる。絵を描き始めた昨年の夏から、作品は五枚に及ぶ。中村さんの自分への挑戦は続く。

挑戦を支える思い

 十二月には、同センターの協力により津福郵便局にて個展を催した。
「自分の絵が飾られるなんて。とても嬉しかったです。訪れた人の感想を読んだら涙が出ます」と、感想が書かれたノートを開きながら、中村さんの目は潤んでいる。「励まされました」「感動しました」と、ノートに綴られた言葉。彼の中での『挑戦』である絵の向こうに、必ずあるのは人への思いだった。
 「病気になって涙が出やすくなったように思います。病気の自分は到底相手にはかなわないという惨めな思いや、小さい頃からの辛かったことが浮かんで涙が出てくるんです。そのため、人と話すのは好きではありません。けれど、今回の個展で自信ができました。再び絵と出会えて本当に嬉しかったです。佐藤さんやスタッフの方々が勧めてくれなかったら、もうずっと絵を描くことはなかったでしょう。皆さんに出会えて感謝しています。私の絵を見て誰かが喜んでくれたらそれでいいんです。同じように障がいを持った方達が、私の絵を見て『よーし、僕達も描こう!』と思ってくれれば嬉しいです」
 そう言って、中村さんは一番好きだという龍の絵を膝に抱える。仕上がるまでに一ヶ月かかったという。
nakamura_02_2.jpg 「この龍の絵が一番気に入っています。雲の中を舞い天に昇る龍の姿が好きです。私もとことん昇っていきたい」
 中村さんの名前も龍。吸い込まれるようなピンクや黄色の明るい色彩の中を二匹の龍が雄雄しく舞っているその絵は、全てを受入れ進もうとする希望に満ち溢れていた。

文/森 志穂
写真/小原 亮

JIBUN-STYLEこれが自分スタイル『Dream5』ダンサー

夢が叶って嬉しい!
応援してくれている人に
ありがとうを伝えたい

jibun-style_1_main.jpg『Dream5』ダンサー
高野  洸  くん

【PROFILE】たかの  あきら(12歳)
久留米市山川町出身・在住。4歳から市内のダンススクールに通い、現在も在籍中。2009年8月エイベックスのイベント『a-nation』でアクトダンサーに選ばれる。9月『Dream5』メンバー決定後、11月CD『I don’t obey~僕らのプライド~』をリリース。
 NHK教育の人気番組『天才てれびくんMAX』の企画から誕生したボーカル&ダンスユニット『ドリームファイブ』。全国の千五百以上の応募者の中からオーディションで合格した四人+番組の中のてれび戦士(レギュラータレント)重本ことりさんによる五人組ユニットだ。十一月四日に、CD『アイ ドント オベイ~僕らのプライド~』をリリースした。
 その中の唯一の男の子が高野洸くん。四歳の頃から久留米市内のダンススクールに通い、小学校二年生からは毎日二~四時間のレッスンを続けてきた。
 「赤ん坊の時から、外出先などで曲が流れていたらフラフラ体を動かすんです。ダンススクールに入って二度目のレッスンでブリッジができるようになったのが、嬉しくてたまらない様子でした。レッスンを重ねてくると、歩いている時も家にいる時も常にステップを踏んでいる状態。叱った時でも足はステップを踏んでいるので、こっちは怒る気が失せちゃうんですよね」
 母親が話す幼い頃の洸くんの様子。スクールでは、ダンスチームを組んで数々のイベントに出演し、「仲間と一緒に踊るのが楽しい」彼の表情はいつもそう語っていたと母親は話す。
 「テレビに出られるプロのダンサーになりたい」
 幼稚園の年中の時に洸くんが書いた七夕の短冊。ダンススクールで次々と予定されるイベントステージが、常に身近な目標を持たせてくれた。身近な目標をクリアする度に少しずつ夢に近づいているのを、彼は実感していたのかもしれない。
 キレのあるパワフルなダンス姿とは裏腹に、普段の洸くんは優しく控えめな性格。その洸くんが、今回は自分から率先して「『天才てれびくんMAX』の全国オーディションに出て合格したい応募したい」。母親は少し驚いたという。
 一次審査をクリア。テレビ放映された二次審査では、審査員に圧倒されてカチコチに緊張した表情だったが見事合格。七月、いよいよ最終審査。たくさんの観客。小さい頃からイベントステージをこなしてきた彼には、それがかえっていつもの雰囲気だった。ノレた。
 「ダンスを始めた時からずっと、もっと上手になって有名になりたいと思っていました。合格したとわかって、あまりの驚きと嬉しさで頭の中が真っ白になりました。そして、これからもっと頑張らなきゃと思いました」
 そう話す彼の表情は、普通の十二歳のあどけない笑顔だった。

今の自分を支える故郷、
久留米

jibun-style_1_sub.jpg 十二月五日、キャナルシティ博多でミニライブ&撮影会を開催。楽屋でこう話す。
 「踊っている時は楽しくてたまりません。地元なので今日は極限まで力を上げて踊りたいです。皆にはぜひ、自分で踊りを考えたソロの部分を見てほしいです。」
 「かわいい!」という歓声の中、登場した五人は体いっぱいで弾け、ステージバックの吹き上がる噴水に負けないくらい、両手を空にいっぱいに広げて踊り歌った。
 「皆が盛り上がってくれたので、自分も思いっきり踊れて気持ちがすっきりしました。地元なのでいつもより嬉しくて、洸くん!という声援が聞こえる度にテンションが上がりました」
夢を叶え、メンバーと共にイキイキとステージで踊る洸くんの姿は眩しかった。
 デビューをきっかけにたくさんの大人達との出会いもあった。杉浦太陽、振付師のKABA・ちゃん、ハリセンボン、数多くの芸能関係者……。初めてのことばかりで不安な自分に、声を掛け思いやりを持って優しく接してくれる温かい方々ばかりだった。そんな中、変化した彼に母親は気づいていた。
 「これまで、ステージで踊っていても人に見られているなんて全く気にしていないかのようにマイペースで、人を意識しない子でした。でも最近変わったようです。例えば友達が遊びに来て帰る時、あっさりバイバイと言っていただけだったのに、今では玄関まで見送ったりして、人に対して大事に接しているなと感じます」
 スタッフとメンバーで食事をしている時、「ドリームファイブの皆とスタッフさんが優しくしてくれて感謝しています」。彼の口から出た言葉だった。プロとなり一つの夢を達成した今、そこにはダンスと同時に人としての成長があった。そしてそれは、次に目指す夢としても表れた。
 「人の話をよく聞き、頭の回転をよくして話が上手な人になりたい。杉浦太陽さんみたいに、いつも皆に笑顔で明るくて優しい人になりたい」
 十二歳という小さなダンサーの興味と可能性は、どんどん未来に向かって広がり続けている。

文/森 志穂
写真/小原 亮

これが自分スタイル-つくり手だからこそ、自分が楽しんでいることが一番です

つくり手だからこそ、
自分が楽しんでいることが一番です

プロデューサー
吉永千紘  さん

【PROFILE】よしなが ちひろ(29歳)
中学2年生から高校3年生までを久留米で過ごす。筑波大学芸術専門学群卒業後、株式会社ホリプロへ入社。東京在住。

 「だんだん良い作品に仕上がっていくのが嬉しいんです。たくさんのお客様が観にきてくれて、いい時間を過ごしてほしい」
 現在、芸能事務所の株式会社ホリプロでプロデューサーとして活躍中の吉永千紘さん。舞台づくりの醍醐味をこう話す。
 舞台をつくる俳優、演出家や照明などクリエーター同士をうまく繋いで一つの舞台をつくり上げていく。さらに、舞台とお客様とを繋ぐ役目がプロデューサー。スタッフ同士が円滑にいくよう間に立ち、舞台を商品として売り込む宣伝から予算の管理までを行なう究極の裏方役だ。
 学生時代にバンド活動をやっていた彼女は、当時ふと思った。
 「ステージの上に立つよりも、ライブをどんな風につくっていくか、見せていくか、構成を考える方が面白いかもしれない」
 その気持ちが今に続いている。
 「プロデューサーというのは、お客様から一番顔が見えない存在ですが、確かにそこに居るという不思議な立場なんです。お客様が舞台の俳優やスタッフに向かってカーテンコールをしている時、そういうお客様の背中を客席の後ろから見るのが好きです。その瞬間、良い舞台だったなと舞台を客観的に見ながら、やりがいを感じます」
 常に客観的でなければいけない。それがプロデューサーでもある。
 「俳優は舞台に没頭していくけれど、私の場合、今回のチラシはどうだったか、どういう風に宣伝するかなど、舞台を常に客観的に見なければいけません。芸術は利益なくやろうと思えばいくらでもできますが、私の仕事はいかに商品として売ってどれだけ利益を残すかなんです。作品としての質を落とさず、かつ利益を上げて俳優さん達にギャランティを払っていく……それがプロデューサーの使命でもあり、おもしろいところです」

今の自分を支える故郷、久留米

 困難を乗り越える力は久留米で養った。明善高校時代がなければ今の自分はないという。
 「勉強は授業以外でも課せられていたし、部活も厳しく先生方も熱心で、いろんなことにきちんと取り組む大切さを教えられた高校時代でした。その厳しさが、今はありがたい支えとして自分の中に残っています。どんなに仕事できつい時があっても、『明善の頃よりはマシだ。頑張れる』と、思えます。また、いい友に出会えた時でもありました。今でも東京で同じ久留米出身、同高校出身の同級生と時々会い、『皆活躍しているな。自分も頑張らないと』と、思います。東京は人と深い関係なしでも生きていける場所だけれども、同郷の友達は強い絆があり、今の私の励みになっています」
 自分を育ててくれた久留米に思いを馳せながら、同時に残念に思うことがある。
 「離れてみて感じるのですが、久留米は良い町、温かい町だったなと感じます。久留米の人の明るく世話焼きで他人に関わってくる人柄が好きでした。そんな自分の故郷に舞台を届けられないのが残念。久留米には設備の良い劇場がなく公演に回れないんです」
 久留米にも舞台の感動を届けたい、その願いがいつの日か叶うといい。
 「舞台って、テレビや映画などメディアを通したものにはない面白さがあります。その場に居る観客だけのために俳優が演じスタッフが転換していく。生身の人間がやっているものを生で感じる感動があるんです。そんな舞台に、より多くの人達が触れる機会を広げられたらと思います」
 三月には、ホリプロ創業五十周年企画として、蜷川幸雄演出『身毒丸』の主役オーディションが行なわれる。応募資格は十二歳から二十歳までの男子。
 「経験は関係ありません。蜷川さんの舞台は吸収すべきことが多いので、あまり考えず純粋にぶつかっていけるような、真っ直ぐで一生懸命な根性のある子がいいでしょう。才能はどこに眠っているかわからないものです。少しでも興味があったら挑戦してほしい。久留米から俳優が誕生したら嬉しいですよね」
 制作からプロデューサーとなって六年。今後より携っていきたい作品も見えてきた。
 「約三十年続いているミュージカル『ピーターパン』を担当していますが、なんて良い作品なんだと、最初に衝撃を受けた作品です。赤ちゃんからお年寄りまで世代に関係なく家族で観にきて楽しめる。夢を見る素晴らしさ、お母さんという存在、人間というものを考える深い話です。こんな、家族で感動を共有できるような作品をずっと広げていけたらいいなと思っています」
 心掛けているのは『前進』、『笑顔』。
 「人を楽しませるものをつくる側だからこそ、自分が楽しんでいることが一番です」
 はきはきと応えるその声は、人生という舞台を謳歌している声だった。

文/森 志穂

poster.jpg『身毒丸』
オーディション
応募者募集中
応募締切/2010年2月26日
問/・03-3490-4630
HYPERLINK
http://www.shintokumaru.net

百貨店時代の口癖は「商店街に学べ、顔の見える仕入れを」JIBUN-STYLEこれが自分スタイル

img_0094.jpg久留米市中心市街地活性化協議会
タウンマネージャー
入江 雅春 さん

【PROFILE】
いりえ まさはる(60歳)
筑紫野市出身、在住。1949年生まれ。百貨店のMD統括部長に就任し、52歳の時に退職。その後、店舗や百貨店のコンサルタント業を経て、2008年に久留米市中心市街地活性化協議会タウンマネージャーに就任。

シャッターの閉まった店が目に付く久留米の商店街。しかし、その隙間からこぼれる元気や掛け声に気づき、街を歩き、人と出会い、シャッターを持ち上げる人力を集める人物がいた。久留米市中心市街地活性化協議会タウンマネージャーの入江雅春氏。
 出店したいという人がいれば、地主交渉をして出店しやすい環境を用意する。さらに、商店街に人が集まる企画を提案する。そうしたマネージメントが彼の役目だ。
 「私はあくまでも縁の下の力持ち。今何かせないかんという商店街の人達の気持ちが、私を動かしているだけです。久留米の人といっぱい会って、話して、それが今に繋がっています。皆が気持ち良くやる気をもって頑張れるように、土壌づくりをするのが私の役目です」
久留米市外出身だからこそ、違う角度から冷静に客観的に久留米を見つめる。それがかえって新鮮な提案を生み出す。
 「本、文具、カフェ、ティッシュなど生活に密着した品を販売する店がなく、バランスが悪いのでは」と、入江氏は分析する。
商店街の現状は、久留米市民人口約八万六千人のうち、一日の通行量は約四千三百人。しかし、例年に比べると空店舗の数は十軒程減った。
 「人との繋がりで成り立っているのが商店街であり、お客さんとの顔の見える関係が魅力です。商店街利用者のメインを占める女性、シニアの知恵や経験をもっと活かしたいし、生活感溢れる通りにしたい。まずは通行量を増やすことからです」
 かつて百貨店に勤めていた頃、お客様とお客様の子どもが骨折して来店。次に来店した時は治っていたため、「治ってよかったね」と、入江氏が声を掛けたところ、お客様は覚えていてくれたことに感激し、その子が結婚する時に「全て任せますから選んで下さい」と、言われてきたという。
 「商売とはそういうことです。売ることではなく、次に来ていただくこと。大事なのは、また行きたいなと思ってもらうことです。百貨店業務と商店街の共通するところは、人を接待するほとめきの気持ち。百貨店時代、『商店街に学べ、顔の見える仕入れを』と、よく言っていましたよ」

img_0112.jpg「イベントの目的は、人を集めることではなく人を育てること」
 入江氏は今、毎週開催しているタウンマネジャーミーティングメンバーと空店舗を利用した様々な企画を検討中だ。
 一つは、『信愛クリスマスショップ メルシィ』。信愛女学院のビジネスキャリア学科一年生の授業の一環で、十一月二十八日~十二月二十三日の土日祝日、空店舗で実際にビジネスを体験してもらおうというもの。
 「若い学生達が商店街の賑わい性に参加することで、またいつもと違った商店街が見られるのではないでしょうか」と、入江氏は期待に笑顔を見せる。
 もう一つは、十一月七、八日に行なわれるB1グランプリに合わせての『くるめ老舗お菓子まつり』。六ツ門の空店舗前にブースを置き、久留米の老舗十店舗を一堂に集める。
 「B1グランプリ会場となる駅東口、三本松公園、六角堂広場をつなぐ商店街をぜひ賑わせたい。考えたら商店街にお菓子屋が殆どないんですよ。甘いものは特に女性、お年寄り、子どもは大好きです。お菓子を嫌いな人はいないでしょ。商店街には老若男女来てほしいから、皆が大好きで歴史ある老舗菓子を集めたいと思いました」
 さらにもう一つ、これはまだ構想段階だそうだが、『春のほとめき自転車フェステイバル』。自転車で商店街に来てもらい、珍車披露、自転車ショーやパレード、ベロタクシー体験などができるイベントだ。
 「ブリヂストンがあって久留米競輪があって中野浩一の出身地でもある久留米は、自転車の町と言ってもいいぐらいです。商店街に関するアンケートをとると駐車場問題は六~七割と高く、ならば自転車で来てもらってはどうかという商店街の方からの声。駐輪場の件などクリアすべき課題はありますが、自転車は健康に良く環境に良く観光もしやすいというメリットがあります。しかし駐車場問題が解決したらお客さんが増えるというものではなく、やはり一方では品物やサービスを追求していく努力が必要。両輪でやっていくことが大事です」
 先般、全国的に元気なことで有名な佐世保市四ヶ町商店街の竹本理事長に学ぶ。
 「イベントの目的は、人を集めるためではなく人づくり。人を集めるためにどうしたらいいのかと相談し合うことで人が育っていくんです。必ず熱いキーマンとなるばか者、若者、よそ者が必要。ぜひ次代を背負う多くの人の登場を待っています」
 十一月三日、一番街商店街に第一回女性起業家募集キャンペーンから生まれたアロマの店がオープンする。今商店街に、シャッターの閉まる音ではなく、シャッターの開く工事の音が嬉しく響いている。

 JIBUN-STYLE 10好きな言葉は『温故知新』

img_9702.jpgこれが自分スタイル
好きな言葉は『温故知新』
先人達がつくり上げてきた
長い歴史を見直すことも大事です

創作料理コンテスト
カメリアプレート入賞者
今村亜沙美

(PROFILE)いまむら  あさみ(24歳)
出張専門『笑顔整体』副院長。1985年生まれ。大刀洗町出身。
福岡市在住。趣味、特技は料理、絵を描くこと。

 久留米の市木である久留米つばき。『正義』に代表され、のちにヨーロッパ、アメリカに伝播し、カメリア(英語でつばきの意味)の代表花となった。その原種となる『正義』は久留米市草野に現存し、約三百年間今日まで華麗な花を咲かせている。
 今回、『スローフード協会筑後平野』では、二〇一〇年に久留米で開催される国際つばき会議に合わせて、久留米産の農産物を使っての久留米つばきをテーマにした『創作料理コンテスト カメリアプレート』を実施。たくさんの応募作品の中から、今村亜沙美さんの料理が入賞しました。
1.jpg 紅白がまだら模様に混じった『正義』の花びらを、梅干を使って紅白まだらのおにぎりで表し、タクアンで黄色いめしべをあしらい、見事に『正義』のつばきを表した。紅いつばきはトマトのマリネで。つぼみはピンクの白玉で。葉はキュウリを使い、その間にキンピラゴボウを散らして枝を表している。
 「できるだけいろんな味付けをせずに、地元久留米で収穫された米や野菜そのものの美味しさを出したかった。また、家庭でつくれるもの、家庭の味を出したかったんです。手の込んだ料理よりシンプルなものをと思ってつくりました」
 そう話す今村さんは、屈託のない二十四歳の若妻の笑顔を見せる。
 五年前に実家を離れ福岡に。
 「土地を離れて初めてわかったんです。こっちの野菜や米は新鮮で美味しかったなって」
 その感動をシンプルにつばきの花として表したことが受賞につながったようだ。
 「料理好きなのでおもしろそうだなと思って応募したんですが、皆さんの料理はとてもレベルが高かったです。試食会場で見ているだけで楽しくなりました。人が見ている前で料理をつくったことがないのでとても緊張しましたが、楽しんで参加できました。まさか自分が賞を取るとは思っていなかったです」
 普段から料理が大好き。チャレンジ精神も旺盛だという。
 「人を料理でおもてなしする時に、素材そのものの味を可愛く出せたらおもしろいだろうなっていつも思っています。日頃の家庭料理をつばきの花に変えて見せたら……と、いろいろと考えるのが楽しかったです」
 インターネットでつばきの花について調べ、イメージをつくる。食材を使ってそのイメージを形にしていく。それも楽しい時間だったという。

あらためて感じた
つばきの魅力、久留米の魅力

 「今回、応募するにあたって感じたことがあります。つばきの花は、子どもの頃から家や道端に必ず咲いている花で昔から何気なく見ていたけれど、こんなにいろんな種類や色があるんだなって初めて知りました。あらためて、きれいな花だなと感じました。バラやカーネーションにはない、和の美しさがありますよね」
 そして、つばきの花の再発見は、久留米の街の再発見でもあるようだ。
 「久留米もそう。昔から馴染みのある街だったので何気なく過ごしていたけれど、伝統があって、緑があって、美味しいものがたくさん収穫できて、人が温かい街。離れてみて、あらためてその魅力がわかりました」
 それらの再発見は、彼女の好きな言葉に象徴される。『温故知新』。
 「新しいものばかりにとらわれるのではなくて、先人達がつくり上げてきた長い歴史を見直すことも大事だと思います。スローフードの地産地消の考え方もそうですよね。それは、東洋医学にも通じるところがあるんです。マクロビオティックなどをこれから学んでいきたいと思っています」
 福岡の自宅では、四年前から夫婦で出張専門の整体院を営む。
 これからの夢をこう話す。
 「人の健康を応援する仕事をしているので、健康をつくる元である食についてはとても大事に考えています。料理はつくる人の考えや気持ちを反映するもの。見た目だけでなく中身が大事だと思っています。食べる人が美味しいと感じるもの、食べる人の体のことを考えてつくりたいです。新鮮で栄養たっぷりの食材で……。
 今後もいろんな料理をつくっていきながら、整体とともに食の大事さを勉強し、伝えていきたいと思っています。食や体のアドバイスをしながら、元気な人を増やしていきたいなと思っています」
 創作料理コンテストをきっかけに広がった温故知新の喜びと夢を語る彼女は、これから紅葉し深まっていく秋に、どこか似ているようだ。

文/森 志穂
写真/小原 亮

【これが自分スタイル】『ブレンダーはどんな時でも味がブレないこと』

バーテンダー
岡 智行 さん

jibun-style1.jpg【PROFILE】おか ともゆき  さん(35才)
1974年生まれ。久留米市出身、在住。2002年12月小頭町に『bar‐kitchen』をオープン。2006年ウイスキーコニサー(エキスパート 3級)を取得。自称・ナイスアシストを目指すハートフルバーテンダー。問/090・9584・9131

【これが自分スタイル】
『ブレンダーはどんな時でも味がブレないこと』
生き方も同じ芯がぶれないことが大事です

 ウイスキーのコクと香りを口にする瞬間、優雅な大人の時間が広がる。そんなひと時にエスコートしてくれるのはバーテンダー。
 『バー キッチン』のバーテンダー岡智行さんは、久留米で三人しかいないというウイスキーコニサーの資格を持つ。ウイスキーコニサーとは、二〇〇四年に日本のスコッチ文化研究所がつくった制度でウイスキーのソムリエのようなもの。酒造国の文化、地理、歴史などを熟知していなければ合格しない。
 「腕試しをしてみたかったんです。五年前に東京の名店に行った時、知識が全くついていけなかったことに敗北感を覚えました。ウイスキーについてこんなに自分は知らないなんて……と。それから毎日五時間ぐらい勉強しました」
 二〇〇六年に見事合格。それでも「私が知るウイスキーは、存在するウイスキーの百分の一」と苦笑する。
jibun-style2.jpgウイスキーは文化だと語る。
 「これ一本がここに届くまでに、問屋や樽・ビン業者など世界中のいろんなものが動いているんです。また、長い歴史から生まれています。四度の戦争及び革命に耐えたコニャック。イングランドの重い酒税に負けずに密造したスコッチウイスキー。アメリカの禁酒法が及ぼしたウイスキー業界への影響など……。俺が飲んでいるこれは何なんだ?とお客様が思った時、ラベルでは書き尽されていない歴史をお客様に説明をすると、『今の時代までよく生き残っといてくれたな』と、お客様も興味を持って楽しんで飲まれます。どこの国でつくられ、どういうねかせ方をし、どんなルートを辿ってきたのかを知ると一層おいしくなるでしょう。そんな、頭で飲む楽しみが大人の飲み方の一つ。家ではなく店で飲む醍醐味です。
 ウイスキーの魅力は時間。時間が経つにつれ、この味がこんな風に変わっていくんだという熟成史のおもしろさがあります。今は生産技術が改善され味が安定していますが、昔の少量生産時代の味も知っておきたいものです」
 趣味が高じてバーテンダーとなり、さらにウイスキーを深く知ろうと、グラスに注ぐ一滴の歴史をさかのぼる。
 店内には、英語をつづったアンティークなラベル、珍しい模様のラベル、年月に赤茶けたラベルなど様々なボトルが並ぶ。ウイスキーだけでも五百本を越えているという。埼玉県でつくっている少量生産型ウイスキー『イチローズモルト』が全種類揃っているのもこの店の特徴だ。
 「ウイスキーを初めて口にした頃は味もわからず、飲んでる自分が格好いいと思いながら飲んでいました。そのうちボトルによる味の違いを感じるようになり、ウイスキーをもっと理解したいと思ったのは六年前にこの店を開けてから。当初はラベルや形が格好いいボトルを買い付けていました。西日本は甘めを好む人が多く、今は安くて美味しく甘みを感じさせてくれるボトル、セールスポイントのあるボトルを買い付けています。どれも一つ一つ思い入れがあって購入したものばかり。それをお客様が飲まれて、おいしかったという感動を人に伝えていってもらえたらいいんです。それが文化ですよ」

ウイスキーの魅力を仲間と共感
興味を広める

 彼の向上心をより刺激するのが、スコッチ文化研究所久留米支部。昨年、岡さん自身が発足させ、遠くは熊本から共にウイスキーに惚れた者同士が集う。
 「九州に支部が一つしかなかったんです。誰かがやるのを待っておくのは嫌いなので、自分で久留米支部をつくろうと思っただけです。皆で集まって勉強して意見交換して……ウイスキープラス日本酒や焼酎という題材で新しい酒との出会いもあります。支部で東京へ勉強に行った時には見たこともないボトルとの出会い、人との出会いがあり、それらを共感できる仲間がいることは嬉しいですね」
 こうして吸収した知識、ウイスキーの魅力は来店するお客様へと伝えられる。
 「皆さんに久留米の街へ繰り出すことをもう一度思い出してほしい。食べ物に頼らず酒だけで勝負する硬派バーとして、飲み手を育てる店でありたいと思います。タクシー代を払ってでも寄る価値のある店だと言われる店になりたいですね」
 モットーは、サントリー山崎のチーフブレンダー輿水精一さんの言葉『ブレンダーの仕事はたとえ嫌なことがあっても味を変えない、ブレないこと』。
「生き方も同じ。嫌なことがあっても人に当たらない、芯がぶれないことが大事だと思っています」
 彼がつくるグラスは、いつもウイスキーを愛するぶれない情熱が琥珀色の中にブレンドされている。

文/森 志穂
写真/中野直美

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