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くるめ-コラム

くるめ食素材探検 vol.48

芋の子を洗う「さといも」編

文/靏久 格(産直や 蔵肆)

「芋の子を洗う」時期になりました。今月は里芋のお話し。

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やっと初秋の風が吹き始めてほっとしております。今夏はチビたちとよくプールに行きました。なんせ、夏場の昼間遊べるとこったらプールくらいしかないもんで。よく浜辺なんかが混雑する様を「芋の子を洗うような」なんていいますけど、あれは里芋を洗うところからきています。

皮が薄くって、たらいなんかに水をはって芋をしっかり入れて、ごりごりかき回すとイモ同士が触れ合いぶつかり、その摩擦で皮が剥がれるんですな。ジャガイモやサツマイモじゃあこうはいきません。

中秋の名月、別名「芋名月」は陰暦の8月15日(ちなみに本年は10月4日です)収穫の儀礼として9世紀ころがら始まったといわれています。栗や大根などと共に里芋をお供えして、その夕食には里芋をたべる風習があったとか。この時期、東北各県である芋煮会ではメインの食材ですし、京都のお正月雑煮にも欠かせない食材です。もちろん、筑後の郷土料理「がめ煮」にも常連の食材ですよね。

日本に伝来したのは縄文時代後期。どうやら稲よりより早く渡来、焼き畑農業の基本の作物の一つだったと伝えられています。

山に自生している芋を採集する「やまいも」に対して、里で栽培するから「さといも」と呼ぶようになったのは江戸時代のこと。

土垂、石川早生、赤芽、八つ頭など様々な品種がありますが、沖縄の「田芋(ターンム、タームウ)」はまた独特の風味があって美味しいです。

特に中城のあたりの、あの独特の赤土で粘土質で、というところで栽培されたものが最高だと思います。もっとも、生産量も少なく現地にいかないとなかなか食べられないのですが。変わったところでは茎を食べる「ずいき」という品種も。こちらは干して保存食にした「肥後ずいき」で有名ですね。

久留米文学散歩 vol.58

筑後川と久留米⑧

文/増原 達也

千六百年(慶長五年)関ヶ原の戦いの後。毛利高政は西軍についた事で太閤蔵入地を接収されています。処が、どの様な事情でか、再度日田入りしています。その間一度は、中津藩黒田如水の管轄に置かれて、この時日田は二万石の領地となっています。

千六百一年(慶長六年)小川光氏が日田郡と玖珠郡の二万石を与えられて入部し、月隈山に永水城を築き、この人物が丸山町も設けています。

千六百十六年(元和二年)石川主殿忠総が六万石となって日田藩が成立しています。

千六百三十三年(寛永十年)石川氏が転封した為、天領に復します。

以後、中津藩と杵築藩の大名預り地となり、千六百三十九年(寛永十六年)幕府直轄の領地となり、永水城に置かれ代官役所に小川正長、小川氏行の二人が代官として赴任し、その支配下になっています。

豊後の天領地は、千六百五十八年(万治元年)に大分郡の一部が加わり大分郡日岡村高松にも布施所が置かれ、支配地は日田、玖珠、速見、大分、宇佐等各郡に及び石高は七万石余りとなり、当初、日田代官が高松の配下も兼ねたが、後には日田と高松の役所で二人の代官で二分した管轄が続きます。その後千六百七十五年(寛文五年)の農民一揆で一時、肥後の細川氏の預り地になり、次の年、直ぐに元に戻っています。

処が千六百八十二年(天和元年)に松平大和守直矩が豊後の内七万石の大名として永水城に入部した為、日田藩が再び復活します。

併し、四年後に直矩が転封した為、天領地に戻り、この体制が暫く続き千六百八十八年から代官が一人となり、この時の役所は高松だった様です。千七百二十四年(享保九年)からは代官増田永政が日田役所に赴任した為、天領管轄の中心は日田となっています。享保以降の日田代官支配は筑前(怡土群)、日向、天草の天領を含めて十二万石になっています。

千七百三十四年(享保十九年)日田代官に岡田庄太夫俊惟以降、一族の岡田、揖斐氏の代官世襲が六人続いています。この時、義民穴井六郎右衛門の直訴事件が起きています。

千七百六十七年(明治四年)揖斐十太夫俊惟の時に増地が存り、支配高が十五万石に達した為、代官から西国郡代に昇格の話が出ています。

香茶店〝香り不思議発見〟 Vol.84

「ハロウィンは幻想的な香りでお出迎え!」

香star

ハロウィンは、ケルト人が起源とされる祭りで秋の収穫を祝い、悪霊を追い払う宗教的な儀式であったが、現代アメリカでは宗教的な意味合いは薄れ、収穫を祝い、「ジャック・オー・ランタン」というかぼちゃをくり抜いたランタンを飾り、子どもたちが魔女やお化けに仮装し近くの家々を訪ね、お菓子を貰う行事になっている。天年堂では、このハロウィンにちなんだ、日本香堂のルームフレグランスESTEBANハロウィン インセンスを用意しました。

魅惑的な香り「ネロリ」、甘いバニラのような香りの「アンバー」の2種類。お部屋の香りを引き立たせ、邪気を払う!?魔法の香りです。ハロウィンパーティを香りで盛り上げましょう。

ネロリお香40本入(香立付)

1,000円(税別)

アンバーお香40本入(香立付)

1,000円(税別)

僧侶が語る 仏教よもやま話

10/26(木)10:00〜

一時間程度、参加費無料。

仏事etcをわかりやすく解説致します。

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.101

“東京お台場ビッグサイト

SCAJ展示会場 グアテマラのブースにて”

写真と文 安達  和宏

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2017年9月19日から22日まで、東京お台場の国際展示場(ビッグサイト)で開催されたSCAJ=日本スペシャルティコーヒー協会の大会に、買付グループのJRN=ジャパンロースターズネットワークで出店しました。自らのブースではグループで買付けたコーヒーをカッピングで紹介してますが、その合間に生産国のブースを観てまわるのも大きな楽しみの一つです。何せ、普段なら飛行機に乗って会い行かなければならないのに、この時ばかりは会場には数カ国の生産者が来日してるのですから。この写真はグアテマラ サンタ・イサベル農園のバルデスさんとグアテマラブース前で再会した時の一コマ。日本に来たのは初めてという彼は、農園で話する時とはまた違った印象を与えてくれます。そんなバルデスさんと話してるだけで、グアテマラに行きたくなるのです…また産地で会いましょう!

むすんで、ひらいて!! vol.42

「こんな意見・研究があります。」

②子どもの心は

いつから育っていくのでしょう

一般財団法人田中教育研究所

幼児心理カウンセラー  野田 鏡子

人は生まれてからおよそ三年間の年月をかけて生涯にわたる心の原型を形づくっていくと言われています。

今回は、マーガレット・マーラーが乳幼児の母子関係の観察を元に体系づけた「心の誕生プロセス」を紹介します。

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【自閉期】

生後1、2か月の赤ちゃんの心の世界は、自他や内外の区別がなくウトウトした状態で、自らの意思で何かをすることはありませんが、自己の中で快・不快の感覚を感じとり両者の区別をします。

【共生期】

生後2か月目に入る頃からは少しずつ外界が見えて来ます。

おっぱいを与えている時、じっと母親の目を見ていたり優しい口調であやすと穏やかな表情をしたりします。この時期に感情が満たされた赤ちゃんと、泣いても泣いてもだれもかまってくれず泣くのをあきらめてしまった赤ちゃんとでは、当然、心の芽生えは違って来ます。

【分離・個体化期】

およそ生後4か月から36か月にかけて起こります。

〈分化期〉目で見て耳で聞き、手で触ることによって外界の世界に注目し取り入れようとします。生後7〜8か月頃になると、お母さんとそれ以外の人を見分けるようになり人見知りが始まります。

〈練習期〉10か月から18か月には、お母さんをホームベースにして這い這いやよちよち歩きをして周りの世界の探索を始めます。

〈再接近期〉15か月〜36か月くらいまでには、自分がお母さんとは分離した一個の存在であるということにはっきり気づいてきます。歩行によって芽生えた分離意識と、お母さんなしには無力なことに気づくことから幼児の分離不安が高くなり絶えずお母さんの存在を確認し母親を強く求め始めます。

〈個体性の確立期〉生後24か月から36か月には、お母さんから離れても心のよりどころであるお母さんの全体像を思い浮かべることが出来、この依存対象が心の中に確立した状態を心の誕生としています。

この三年間は非常に大切で、その後の人生の生き方にも大きく影響すると私も思います。穏やかで、暖かく、優しく、楽しく満ち足りた時期を過ごしてほしいものです。

歯は健康のバロメーター vol.6

〜落合先生のお口のお話し〜

「歯の着色がとても目立って気になるのですが、

どうして着色してしまうんですか?」

おちあい小児歯科医院 院長 落合 聡

こんにちは。おちあい小児歯科医院の落合です。今回は、歯の着色についてお話しします。

歯の着色の目立つ人と目立たない子がいます。麦茶、ウーロン茶、コーヒー、カレー等、着色しやすい飲み物や食べ物が原因となって着色が目立つようになってしまうことが多いのですが、それにしても同じようなものを飲んだり食べたりしているにもかかわらず、歯の着色が目立つ子と目立たない子がいます。その違いはどこにあるかというと、着色の目立つ子は鼻のとおりが悪く、口で呼吸している子が非常に多いということに気が付きます。

鼻のとおりが悪いとは、風邪をひいて鼻がつまっている、日常的に鼻炎や蓄膿症で鼻水が多い、扁桃腺やアデノイドが大きく鼻からのどにかけての空気の通り道が狭い、というような状態です。

なぜ、鼻のとおりが悪いと歯の着色が目立つのか、それは口の中が乾燥しやすいかどうか、唾液の流れがいいかどうか、にその原因があります。本来、口の中は唾液で満たされていて、口の中に入ってきた飲み物や食べ物は、舌や頬の動きとともに、唾液によって自然と洗い流され、飲み込んでいくものです。ところが鼻のとおりが悪い場合、口で呼吸しなければ苦しくなりますから、口の中には一日中、絶えず空気が出たり入ったりすることになります。そうなると、口の中が乾燥し、さらさらしていた唾液はねばねばが強くなり、口の中の飲み物や食べ物が自然には洗い流されにくくなっていきます。また空気中のほこり等も吸い込みやすくなり、これらが歯の着色になっていくのです。

つまり食器に例えると、食事の後に水につけておけば簡単に取れる汚れが、何日も乾燥した状態でほっておくと、簡単には汚れが取れなくなってしまう、歯の着色はまさしくこの状態になっているのです。こどもの口の中が乾燥しているかどうか、これを知るには明らかに鼻がつまっているのが目に見えればわかりやすいのですが、それ以外には寝ているときに口を開けた状態で寝ている、いびきをかく、鼻水が多い、ぼんやりとしているときには口を開けていることが多い、ということがみられる場合は歯に着色がしやすい状態になっていると考えられます。また、朝起きたとき、口臭がひどく、昼になるにしたがって口臭がなくなっていく、という場合も口の中の乾燥が原因になっていることが多いものです。どうしたら口の中の乾燥を防ぐことができるのか、その方法については次の機会にご説明致します。

香茶店〝香り不思議発見〟 Vol.83

香茶店〝香り不思議発見〟 Vol.83

「彼岸花の咲く頃に!」

香star
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そろそろ夏の名残の残暑も和らいできた。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われている。そしてその合図とも取れるのが「彼岸花」(別名:曼珠沙華)、田んぼの畦道やお墓の周りによく咲いている。彼岸花は全草有毒で鱗茎にアルカロイドを多く含む有毒植物で、お墓や畦道に植えた理由はモグラなど動物がこないように人為的に植えた。また根茎はアルカロイド毒を水で晒せば窮乏食として利用された。

花の色は一般的に赤、中にはしろや黄色もある。筑後地区でも彼岸花巡りも人気だ。

ご先祖様と一番近くなるのがお彼岸。

ご先祖様に「お蔭様」の気持ち。

おはぎをや季節の花を供えて供養するとともに、生きている歓び自然の恵みへの感謝をするということになる。

久留米文学散歩 vol.57

久留米文学散歩 vol.57

筑後川と久留米⑦

文/増原 達也

筑後川の上流浸しは今でこそ山間の日田市ですが、近世、特に江戸時代中期以降、明治時代が始まる迄は九州の政治、経済、文化の中心であったのです。政治的には西国側の郡代が置かれ幕府の天領であり、経済面では「掛屋」と称される日田商人が活躍、「日田金」の名の付いた資本が多く運用されていました。文化面では日本最大の私塾と云われた『咸宜園』が存在しています。この咸宜園を開いたのが「広瀬淡窓)で、この人は江戸時代後期の儒学者として九州では三本の指に入る学者として名を遺すと共に明治を生む傑物も多く世に送り出しています。他の二名は三浦梅園と帆足万里だと云われています。

扨この日田は元々大友宗麟の支配下にあった様ですが、彼の子義統が朝鮮出兵の際の不始末で当時の天下人豊臣秀吉にこの地区を没収され日田地区は「大閣蔵入地」となっています。早い話秀吉の「直轄地」となったのです、この時(文禄三年・一五九四)、日田と現在の玖珠郡一帯の代官として来たのが宮木長次郎で、この人物が岐阜の長良川に存った「鵜飼」を持ち込み三隅川でも、それを始め、これが現在の「日田の鵜飼」の起こりと伝えられています。だから、日田の鵜飼は四百年以上の歴史を有していることになります。そしてこの人物が日隈山頂城を築き、「隈城」とし城下を隈町としたのです。次に入ったのが、「毛利高政」(慶長元年一五九六)で、この時初めて「壱万石」の大名になっています。そして慶長四年(一六〇〇)に関ヶ原の役で、この毛利は西軍についた為、徳川方に取られその後は一時日田は中津城の黒田如水の支配下に置かれています。この事を歴史書は黒田の「預かり地」としています。但しこの時毛利高政は役後になって徳川方に寝返った為、この辺では歴史書によって少しずつ違った事が遺されています。戦役後同じ大分県内にある「佐伯城」に転封され、再度日田の郡代も兼任する事になっています。兼任とは云え、当時日田は既に二万石の領地となっていたので、毛利氏は可成りの出世だった様です。そう云えば、この佐伯市に「番匠川」と云う三隅川より少し大きい川があります。それにこの地は「ハワイ奇襲作戦」の訓練基地でもあった様です。この佐伯に広瀬淡窓は半年ばかりですが、留学しています。

くるめ食素材探検 vol.47

くるめ食素材探検 vol.47

あまりにもなじんだ野菜「じゃがいも」編

文/靏久 格(産直や 蔵肆)
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ちょうど北海道の新ジャガが出回る時期ですね。昨年の北海道は台風が四連発で襲来、あらかた農地を流してしまったためえらいことになりました。ポテトチップスなどが品薄になったのはまだまだ記憶に新しいところです。ほかのジャガイモを使えばいいじゃん!と思ったあなた。じつはポテチ専用の品種というものがありまして、だんしゃくなんか使っても焦げたり味がよくなかったりという事情があったりします。

原産地は南アメリカですが、本場はヨーロッパでしょうか。イギリスでは300種ほど現役で栽培されているそうです。ちなみにペルーのリマにある国際ポテトセンターでは9900種が保存されているとか。さて、皆さん何種類ご存知でしょうか?私?聞かないでください・・・。

日本への伝来は江戸時代。ですが温暖な気候と荒れ地を好むサツマイモと一緒に導入されたため、冷涼な気候を好み肥料も必要なジャガイモはあまり広まりませんでした。本格的に栽培されだしたのは北海道開拓のはじまった明治のころ。だんしゃく、メークインなどはその頃の品種です。そんな古い品種が現役、というのは野菜の世界ではめずらしいことだったりします。ちなみに、だんしゃくは高知県出身の川田龍吉男爵が北海道でひろめたもの。正式名称は「アイリッシュ・コブラー」といいますが、男爵様が広めたので通称の「だんしゃく」が広まりました。

同じ明治時代に活躍した牛島謹爾(うしじま きんじ)は三潴出身、八女で育ち渡米したのち、カリフォルニアでジャガイモ栽培で成功。一時期はカリフォニア州の5割以上、アメリカ全体の1割のじゃがいもの生産額を彼の農園で生産、「ポテトキング」と呼ばれたそうです。

写真は「デストロイヤー」わりと最近(といっても10年くらい前)の品種です。皮が紫色で眼の部分が赤いためマスクをかぶったような外観ということからついた名前です。ちょっと悪役っぽくないですか?本名は「グラウンド・ペチカ」といいます。

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.100

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真  vol.100

“南米 パナマの買付け チリキ県 ボルカン地区 ソフィア農園”

写真と文 安達  和宏
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2017年3月14日から25日まで、パナマ・コロンビアの買付けに行ってきました。今日の一枚はチリキ県ボルカンという地域にあるソフィア農園での一コマです。産地へ行くと先ず空港、それから陸路で農園のある山々の近くにある街のホテルへ、もしくは農園主の家へ行きカッピングやお話しを聞きます。それからまたピックアップ車などの車で2〜3時間舗装してない山道を千数百メートル登りやっと辿りつきます。そんな農園の入り口の脇には小屋が有り、そこに住み込みのワーカーファミリーが数家族いいたりします。電気も無いような厳しい環境でコーヒー作りに勤しむ彼らは、インディオ系の人が多く決して豊かの暮らしとは言えません。そんな社会環境の中ですが…この農園のオーナーはワーカーの生活向上を常々考え経営しています。彼がこの農園の小屋を建てたとき取引の銀行員から「あなたがここに住むのですか?」と聞かれたそうです。その位ワーカーの小屋は立派な造りだったのです。

私たちは自家焙煎の珈琲豆屋として高品質の豆を買付ける目的があります。しかし。それだけではなく農園主の人間性にも興味持ち、そこで働く人々と共に豊かになっていかなくてはならないと考えています。これからも、生産者やお客様の笑顔を思い浮かべながら〜まだまだ買付けの旅は続きます。

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