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くるめ-コラム

歯は健康のバロメーター vol.8

〜落合先生のお口のお話し〜

「朝起きたとき、口臭がひどいのですが、

どうしてですか?《後編》」

おちあい小児歯科医院 院長 落合 聡

こんにちは。おちあい小児歯科医院の落合です。今回は先月号に引き続き、こどもの口臭についてお話しします。

どうしたら口の中の乾燥を防ぐことができるのか、その方法については次の3つがあげられます。1つ目は、根本的に鼻のつまりを治すことです。原因がなくなるのですから、これが一番有効ですが、実はこどもの鼻づまりを治すということは大変で、扁桃腺やアデノイドの肥大が原因なら手術が必要ですし、副鼻腔炎やアレルギー性鼻炎等であれば簡単に治るというものではありませんので時間をかけて取り組まなければならないでしょう。2つ目は朝起きて歯みがきをするとき、歯はもちろん、舌の上などもきれいにして、さらに緑茶などでよくうがいをすることです。これによって、夜の間にはびこっていた細菌や汚れを除去し、かなり短時間に昼間の口臭の少ない状態に戻すことができます。しかし、ついてしまったにおいを除去するために忙しい朝の時間をどれだけ使うことができるか、そう考えるとこれもそれほど簡単なことではありません。3つ目は保湿効果のある歯磨き剤を使って歯磨きをすることです。夜寝る前に使って歯磨きをすれば、夜間の口の中の乾燥をある程度防ぐ効果が期待できますので、朝起きたときの口臭はかなり軽減できることになります。この状態で朝起きたら歯を磨いて、舌の上を軽くクリーニングして、緑茶などでうがいをする、そして耳鼻科に通院して鼻の状態を改善するようにする、これらを毎日の生活の中で無理のないようにうまく組み合わせることによって、かなり良い結果が期待できます。

香茶店〝香り不思議発見〟 Vol.86

「年末、喪中のはがきが届いたら!

お線香をお届けしましょう」

香star

tennendo20171205.jpg毎年、一年前の年賀状をめくりながら今年は早めに準備しようと頑張っているものの、結局はあと数日で大晦日ということが通例になってしまうのは当方だけではなさそうです。
12月にふと舞い込む「喪中ハガキ」、親しかった方の訃報を気付かずにいた非礼もさる事ながら、改めてのご挨拶もできない。そんな時に喪中見舞いとしてお線香を贈り、お悔やみの気持ちを届けてはいかがですか!
天年堂では、喪中見舞いからギフトまで各種取り揃えています。
あなたの思いを香りに込めて・・・

新店舗1周年セール開催中

12月1日〜

香りの限定品の販売・香炉展開催中

1周年記念「練香教室」

源氏香や天年堂に伝わる江戸後期の巻物など貴重な資料を使いながら、練香を楽しみます。

とき/12月13日(水)

ところ/天年堂店舗内

講師/木下忍 氏 定員/6名

参加費/2,500円(材料費含む)

●お問合せ・参加申込みは天年堂まで

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.103

“2017 コロンビア サン・アドルホ農園Ⅱ”

写真と文 安達  和宏

adachi20171205.jpg2017年3月に訪問した農園での一コマです。前号で紹介した女性方が作った農園のおもてなし料理で腹ごしらえの後は、生産処理場と乾燥棚(2階建)の見学です。お腹パンパンのところに不安定なハシゴ階段を必死によじ登りながら乾燥の様子を記憶に留めます。電線が目の前にある位なので結構な高さで、眺めも変わり農園の区割りもよく分かります。棚の上では、ゆるやかな風を受けながら生産者とエキスポーターが談笑し近況報告や今年の出来映えを話していました。我々もそうですが、エキスポーターにとっても情報交換は最重要事項です。産地の状況や生産者の想いも汲みながら、また私たちに素晴らしい豆を紹介してくれるのです。

伝える事の重要さを噛み締める今日この頃であります。

くるめ食素材探検 vol.50

お鍋に欠かせない!

宮沢賢治が愛した野菜 「白菜」編

文/靏久 格(産直や 蔵肆)

hakusai20171205.jpgぐっと冷え込みお鍋の季節になりました。水炊き、鳥団子、あんこうやてっちり、しゃぶしゃぶもお鍋にはいるのかな?そんなお鍋に欠かせない名わき役が「白菜」です。野菜が高いの低いのと毎年話題になりますが、どうやら今年は高めのようです。お天道様には勝てませぬ。

白菜が日本に入ってきたのは江戸時代、だったんですがアブラナ科の宿命、すぐにほかの野菜とまじってしまい、ぐっと巻かなかったり、色がついてしまったりと失敗の連続で安定的に栽培とまではいかなかったようです。明治末期から大正にかけて、宮城県松島湾の離れ小島で隔離、種をとったので安定栽培に成功、仙台白菜の名で出荷したとのこと。明治から昭和初期の詩人、宮沢賢治も大変白菜がすきで良く栽培していたとのこと。どんな食べ方をしていたんでしょうね。

さまざまな料理に活躍する白菜ですが、ずっしりとしたものをえらぶといいでしょう。とはいえ、最近は四分の一や八分の一(!)などにカットしてあるものが大半。カットしてある切り口の白色が冴えているものを選びましょう。とはいえ、ぜひ丸で買って、漬け物のほか、サラダ、煮物、和え物などにご活用いただきたいものです。
白菜の漬けものといえばキムチ。朝鮮半島に白菜が持ち込んだのは伊藤博文なんだそうです。朝鮮半島の風土にあった栽培方法を確立するまで10年以上かかったそうですが、白菜の普及とともに白菜キムチも誕生、とのこと。ちなみにとうがらしを持ち込んだのは豊臣秀吉とか。いまでは韓国料理としておなじみの白菜キムチですが、日本にも御縁があったんですねえ。しかしあの辛いという食文化はどこからできたんだろう。

そういえば、博物館にも入っています。台湾台北市の故宮博物院には「ひすいの白菜」が。その名も「翠玉白菜」三年ほど前に東京の国立博物館にきたようですが、いけずじまい…。見たかったなぁ。

久留米文学散歩 vol.60

筑後川と久留米⑩

文/増原 達也

淡窓が本格的に漢詩を初めたのは十一歳の頃、松下西洋の門を叩いてからと伝えられています。それ迄も色々な学問(儒学)に興味は持っていましたが、この松下西洋の処に入門してからが本格的な様です。

何でも五年ばかり西洋氏の塾に通っているのですが、その間西洋氏の教え方が好かったのか、この五年で基礎がしっかり出来ています。
そして、西洋氏は日田に開塾して五年後には、当時の佐伯藩(二万石)から招かれてそちらへ行って仕舞っています。佐伯藩では西洋氏に相当な厚遇を与え藩の学制を司る長にも付けています。

その事を知ってか知らずか、淡窓は十四歳から十五歳の頃に佐伯迄、西洋氏を追っ掛けています。勿論途中迄は広瀬家の下僕が付いて行っているのですが、残り佐伯迄八里(三十二キロ)となった時、彼はそれからは独りで佐伯迄行っています。

処が佐伯では、直ぐに西洋氏に逢えると思っていたが西洋氏は、既に城中住いとなっており、淡窓の思惑とは大きく違っていました。淡窓は西洋に直ぐに逢え、亦、彼も喜んで迎え入れてくれると思っていたのでしょう。西洋氏が日田在住の節はその様な会話が存っていたのかも知れません。だから淡窓は佐伯には一人で行くと家人を困らせたと思われます。家人は淡窓の勉強熱心さと誤解もしたでしょう。事実誤解もされる様な西洋氏は日田で実績を遺していたのでしょう。だから広瀬家では下僕を付ける事で妥協し淡窓に旅立ちをさせているようです。

淡窓は佐伯に着いて西洋氏の態度の変化が理解出来なかったと思います。この時既に下僕から日田の広瀬家には連絡が行き、広瀬家から佐伯の取引先には淡窓の件は早馬で連絡が存り、彼を捜していたと思われ、直ぐに淡窓は発見され、この取引先の「つて」で西洋氏の門下生になることが出来ています。併し西洋氏の態度は淡窓が期待していたものとは大きく違い、それに彼は失意に似た感情を持つようになっています。

だから、彼は四ヵ月しか続かず帰郷しています。併しそれ以降の彼の勉強振りは、他が目を見張るばかりと云われています。この件が淡窓に大きく影響して「咸宜園」に結びついています。扨この西洋氏ですが、元は有馬藩の医家の出の人物と伝えられ、佐伯藩以後久留米に戻って来ています。この人物、名は幾つか使っていた様ですが、どうも本名は松下勇助だった様です。

むすんで、ひらいて!! vol.44

「こんな意見・研究があります。」

④子どもの遊びの変化

一般財団法人田中教育研究所

幼児心理カウンセラー  野田 鏡子

wakaba20171205.jpg子どもにとって『遊び』は学びです。卒園前の年長児に関する遊びの調査で、ベネッセ教育総合研究所は、「‘遊び込む経験’が多い年長児ほど学びに向かう力は高い。」「保育者が子どもの‘やりたい’気持ちを尊重しているなど、受容的に関わっているほど年長児の‘遊び込む経験’が多くなる。」「園で自由に遊べる時間や場所・遊具や素材があるなど、環境が充実しているほど年長児の‘遊び込む経験’が多くなる。」「‘遊び込む経験’と‘友達との協同的な活動’の経験の多さは関連している。」と報告をしています。

しかし、近年、集団生活がうまく出来ず動き回る子や、他の子どもとコミュニケ―ションが上手くとれない、相手の気持ちを読みとる、社会性が身についていない子が増え大きな問題となっています。それは、この『遊び』がTV・DVDの視聴、ゲーム機を長時間するなど受動的ものへと変化したのが要因のひとつになっているのではないかと思います。

幼稚園・保育園を選ぶ際も、遊具やのびのびと体を使って遊べる園庭、保育者の導き方を見て、子どもが楽しんで園生活を送れるよう心掛けてあげる必要があります。
ですが、それ以上に、親が子どもと共に楽しんでコミュニケ―ションをとりながら『遊び』の経験の幅を広げ、「知りたい」「学びたい」「もっとやりたい」という意欲を満たすよう導いていくことが大切です。

コーヒー産地を訪ねて…一枚の写真 vol.102

“2017 コロンビア サン・アドルホ農園”

写真と文 安達  和宏

coffee201711.jpg2017年3月に訪問した農園での一コマです。ピタリートの街から車で移動しお腹ペコペコのところに、出迎えてくれたのは嬉しい地元料理でした。屋外の厨房では女性たちがキビキビと準備をしています。温かいサンコーチョ(鳥肉と野菜をじっくり煮込んだスープ)は、ちょっと固めだけど味のある焼き肉アサードとトルテイーヤ、コーヒーの農園の歴史に耳を傾けながら舌鼓を打ちます。イタリア系の移民と言われた彼らにも言えるのですが、農園の人々は家族やその先祖を非常に敬います。もちろん日本もそうですがそれ以上の様に思います。それは、異国の地で異郷の地にて厳しい環境の中で山を開拓し、その生活を造りあげてくれたご先祖さまへの感謝の想いがより強く、明確なのでしょう。私自身もこの10月に父の出身地である八女の地に新店を出しました。地元の方との話で父の話題が出るたびに、感謝の想いが湧き上がるのでした。

香茶店〝香り不思議発見〟 Vol.85

「秋の夜長は和ろうそくの灯りとショパンで!」

香star

tennen201711-1.jpg 十数年前、「夜咄の会」という茶事を経験する機会を得た。その昔、まだ電気がない時代に習い、ろうそくの灯りで室内を明るくしていた。10人余りがお席につき、お茶や懐石料理が出てくるのを待っていた。目の前には燭台が置かれ和ろうそくが灯された。

亭主の説明によると二人に一つの燭台の灯りということ。2時間ぐらいのお席の中で、数回和ろうそくの芯切りを見た。芯を切らないと炎が短くなるという。昔は秋の夜長も風情のある過ごし方をしたものだ。現代、24時間電気の灯りのある時代、TV、パソコンなどの光は目から脳へ極度に刺激を与えるそうだ。この秋の夜長は和ろうそくの灯りのもと、お香を焚き、ショパンの夜想曲でも聴きながらゆったりと過ごしてみてはいかが!

tennen201711-2.jpg香炉展

11月13日(月)~11月25日(土)

開店1周年記念「練り香教室」開催

12月中旬開催予定

※詳細・日程はお店にお尋ねください。

くるめ食素材探検 vol.49

日頃からよく目にする酸っぱいアレと言えば?

そう ! 「レモン」編

文/靏久 格(産直や 蔵肆)

kurashi201711.jpg レモンはレモンでもグリーンレモン、ご存知ですか?その名の通り緑色のレモンです。「リスボン」など特定の品種を指すのではなく、黄色く熟す前の緑色の状態のレモンをいいます。そう、ピーマンも熟す前は緑!熟したら赤や黄色になります。レモンも熟す前は緑なんです。熟した黄色のレモンに比べ、酸味が強く香りがとてもさわやかなのが持ち味。輸入品が大半をしめるレモン、残念ながら国産レモンの流通は比較的少ないのが現状ですが、緑色のグリーンレモンは10月~12月までの短い間でしか手に入らない、正に今が旬なレモンなのです!!

国内のレモンの多くは、栽培時に無農薬で育てることが多く、洗ってそのまま食べることも可能。農家さんの努力のおかげで、安心して皮ごと料理に使用できるんですね。産地でいうとトップは広島県。温暖な瀬戸内の島々で栽培されていることも。柑橘類は寒さにとても弱く、雪が降ると収穫量は激減、樹が傷んでしまって枯れてしまう、なんてこともあるんです。

九州だと水俣が有名な産地です。戦前は熊本の三角港から香港にむけて柑橘類の輸出が盛んだったとか。防カビ剤や農薬などポストハーベストの技術がなかった時代、どうしても輸送中に腐っちゃうんですね。海上輸送で日程の利がある水俣産のレモン、アメリカに勝る品質だったそう。なんとなく落語の「千両みかん」を思い出される話であります。

塩レモンやはちみつ漬けなど保存食作りもおすすめですが、果汁を絞ってサラダのドレッシングに、皮ごと凍らせてレモンサワーの氷として使ってもよし、凍らせて蜂蜜などで甘みを足して、そのままシャーベットにして!などいかがでしょうか?

久留米文学散歩 vol.59

筑後川と久留米⑨

文/増原 達也

千七百八十二年(天明二年)この年、日田豆田魚町の豪商広瀬家の長男として淡窓が生まれています。広瀬の家に就いては色々伝説は存りますが、この時は既に「博多家」として名を成し、亦「掛屋八軒士」の一員として日田、博多では無くてはならない豪商となっています。淡窓は生まれつき躯が弱かったのですが、当時としては一流の治療を受ける事が出来ており、そして後に、「咸宣園」を設立するのも豪商としての力が背景となっている様です。

千七百九十三年(寛政五年)高山彦九郎が広瀬家を訪問、淡窓(当時十二歳)と会い学力の昂さに驚いていたと広瀬家側の資料には遺っています。この時、彦九郎が淡窓の伯父を訪ねたのか、実父を訪ねたのかは判明していません。そしてこの年の六月、彦九郎は小郡で「自刃」しています。学力の昂さと云っても淡窓の場合は「儒学」であり、この時代、既に一般でも「洋学」が芽吹いていたのです。咸宣園は淡窓から七~八代迄続き、明治に入り自然消滅しています。そして世は西洋文化の花盛りとなります。

日田の代官所及び商家が飛躍的に拡大したのは、千六百三十七年(寛永十四年)の秋から翌年春に架けて起きた天草四郎時貞を首領としてキリシタン信者が中心となった「島原の乱」です。この時信徒側四万に対し幕府側が十二万の兵で攻めているのです。この物資や食料を調達したのが「日田の掛屋」を中心とした日田商人だった様です。これが日田商人の信用を高め以降、「日田金」(九州各藩からの預り金)を生む事に繋がっています。

もう二十年以上も前の事ですが島原の乱の舞台となった原城址(南島原市南有馬町乙に所在)に寄ってみました。当時幕府側は「キリスト教徒の復活」を半分信じていた様で死体を二つに切断、分けて埋めてありました。幕府側の狼狽振りが判る様な気がしました。亦、天草四郎が何故逃げ場の無い、原城を選んだかに附いては別の機会にします。島原の乱と天草の乱は別の物です。天草の乱は秀吉(豊臣)が宇土に城を築る為のもので、この時は小西行長と加藤清正が攻撃し、小西側は捕虜を解放したのに清政側は捕虜全員を殺しています。それは島原の乱の約五十年前です。

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